マタイ2:1-15

“幼子を狙う者から救い出す主が選んだ異邦の人達”  内田耕治師

 

2000年前、この世に生まれたイエス様は当時ユダヤを治めていたヘロデ王に殺されかけました。ヘロデはユダヤ人ではなく隣のイドマヤ人ですが、能力があり世渡りが上手ったので、いろんな所を通されながらもローマの後ろ盾によってユダヤの王になりました。選民意識の強いユダヤ人はイドマヤ人の彼に反発しましたが、彼はローマに忠誠を誓いながら、その権威を上手く利用し、またユダヤ人の名家から妻を娶ったりしてユダヤでの権力基盤を固めて専制君主として振舞いました。

彼は非常に猜疑心の強い人物で多くの人達を次々に処刑しました。たくさんいる妻の中で中傷をうのみにして最愛の妻を殺し、2人の王子が父の命と王座を狙っていると思い込んで彼らを処刑しました。だから、東方の博士達が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私達はその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」と言うのを聞いて“また自分の地位を狙う奴が現われた”と思いました。そんなヘロデを恐れてユダヤ人の祭司長や律法学者は、生まれたメシヤつまり救い主を待ち望んでいながら、だれ1人としてベツレヘムに会いに行こうとしませんでした。ところが、東方の博士達は外国から来た異邦の人達だったので、ヘロデ王がそういう人だとは何も知らず怖いものなしでユダヤ人の王として生まれた幼子を探し求めました。

まず彼らは東の国にいた時、星を研究する中で、ある星が昇ることを通して、やがてユダヤの王となる救い主の誕生を知り、さらに遠いユダヤに旅をしてその王に会って拝もうと思いました。占星術は異教的で偶像礼拝的ですから聖書では本来あり得ないことです。けれどもあの時のあの博士達に、主は特別にそういう方法で主のご計画を伝えました。

彼らは異邦人ですから、ユダヤ人のように動物のいけにえをする習慣がなかったようで非常に高価な黄金、乳香、没薬という贈り物を献げました。実質的にこの贈り物のおかげでヨセフはマリヤと幼子イエスを連れてエジプトに逃げることができました。「エジプトに逃げなさい」と御使いから聞いても、それは大変な長旅です。またエジプトに着いてからだれも身寄りがない彼らにとって住む所と食べる物と着る物を買って生活しなければなりません。しかも長期間に渡りますから先立つものがなければエジプトに行くのは困難なことです。けれども博士達の献げた贈り物でその費用を満たすことができたのです。つまり博士達は幼子とその両親をヘロデから救い、無事にエジプトに行かせ、そこでの暮らしを守るためにユダヤの地に遣わされたようなものでした。けれども彼らのベツレヘムへの旅はヘロデに利用されていました。ヘロデは「――私も行って拝むから」と言って後で幼子の居場所を教えるように博士達に命じてその情報が得られたら幼子を殺すつもりでした。博士達はヘロデ王のそのような企みは何も知らないでベツレヘムに行き、幼子イエスを見つけました。だから幼子イエスを礼拝した後、彼らが夢を通して「ヘロデのところに戻るな」という警告が与えられてそれに聞き従い、別の道を通って自分の国に帰ったことによって本当に幼子とその両親をヘロデから救い出し、その後の暮らしを守ることができ、また自分達をもヘロデの魔の手から救うことができました。

聖書には「警告」あるいは「戒め」とだけ書いてありますが、それは明らかに主が幼子イエスや博士達に備えて下さった救いの道でした。もし、あの警告がなかったら、どうなったか、ぞっとします。けれども、主はもう少しで滅びてしまうギリギリの状況で救いの道を開いて下さいました。それが神様のやり方なのです。

どうしてか?それは私達に“主は私達を決して見捨てない”という恵みを学ばせるためなのです。へブル13章に「主ご自身が“わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない”と言われた」とあります。これは有難いみことばですが、いつも安全で守られて平和ボケしている人やいつも贅沢で何も不自由がない人には“見放さず、見捨てない”と言われても、その恵みがわかりません。1コリント10章に「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えて下さいます」とあります。これは有難いみことばですが、何をやっても上手く行き、誉められてばかりで試練に遭ったことがない人には、“神は真実な方”だと言われてもピンと来ません。だから、もう少しで滅びてしまうギリギリの状況で救われたり脱出できたりするのは、私達を見捨てず救い出して下さる神の恵みを学ぶためなのです。そういうことで、もし私達の人生でかつてギリギリの状況で救われたり脱出できたりした経験があるならば、それは神の恵みを学ぶための貴重な経験です。

そのような経験がなくても大丈夫です。もっと基本的なことを考えたらいいのです。それは、私達がただ恵みによって救われたことです。エペソ2章に「あなたがたは、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それはあなたがたたから出たことではなく、神の賜物です」とあります。神の賜物で私達が救われたことを逆に考えると、私達自身から出たものでは私達は決して救われなかったということです。私達はそのままでは滅びに定められた者でした。

けれども神は確実に滅びてしまう私達にイエス・キリストという救いの道を与えて下さいました。もしイエス様に出会わなかったら、私達は確実に滅びでした。だから、それもギリギリの状況で与えられた恵みです。世界にはイエス様に出会うことができず、そのまま滅びる人々がたくさんいます。そんな中で私達はイエス様に出会うことができた。それは凄い恵みなのです。その恵みを覚えながら新しい年を迎えましょう。