ヨシュア7章

“主は悪しき連体責任を取らせない”  内田耕治師

 

上に立つ者や支配者は部下や民衆をグループに分けて連体責任で仕事をやらせて効果を上げることがあります。けれども連体責任は関係のない人にまで責任を取らせる道理に合わないことです。物事を連体責任で考えると、ただ上に立つ者の顔色を伺うとか、仲間内に“迷惑をかけない”ことが一番大事なことになります。だから、だれかが問題を起したとき、公にして皆に責任が及ぶのを恐れて皆が黙ってしまい問題がずーっと続いてしまいます。検査していないのに検査したと長年、嘘をついて来た企業の隠蔽体質はその1つの例です。連体責任は上に立つ者には手間が省けて都合が良くても、全体から見ると善悪の規準が麻痺し、悪いことでもそのまま温存し、それが影響してやがて全体の堕落や滅びを招いてしまう悪しき制度なのです。

けれども、主なる神はそれとは対照的に罪を犯した者を捜し出してその人だけをさばいて、その罪の影響が広がらないようにして全体を堕落や滅びから救うお方です。その良い例がアカンの罪をさばいたことです。イスラエル人がエリコの町を攻略するとき、主は「聖絶のものには手を出すな」と命じました。だれかが聖絶のものを自分のために取ったらイスラエル全体を聖絶のものとして災いを受けるから、決してそうしてはならないと主は戒めました。けれども、アカンは美しい外套1着、銀200シェケル、50シェケルの金の延べ棒1本に目がくらんでそれらのものを自分のために取り、ひそかに自分の天幕の地面の下に隠してその命令を破りました。それでイスラエル人は聖絶の者となり、災いを受けかかっていました。それはアイとの戦いで明らかになりました。偵察隊の報告により3千人だけでアイの町を攻めたら、たった36人がやられただけでイスラエル人は逃げてしまい、その心は萎え、水のようになり、ヨシュアと長老達はこの情けない敗北にショックを受けて衣を引き裂き、頭に塵を被って主のみこころを求めました。すると、主からヨシュアに“イスラエル人は戒めを破って聖絶の者となったので今、その聖絶の物を滅ぼしてしまわなければ、もはやあなたがたとともにいない。だから、民を聖別してあなたがたの中から聖絶の物を取り除きなさい”とのみこころが示されました。それでイスラエル人は聖絶の物を取ったその1人を何としてでも捜し出しました。主はその時、「くじ引き」という手段を用いました。まず部族ごとにくじを引かせると、その1人がいるのはユダ部族であることがわかり、次にユダの諸氏族にくじを引かせたら、ゼラフ人の氏族にその1人がいることがわかり、ゼラフ人の男1人1人にくじを引かせると、ザブディが分けられました。そしてザブディの家族の男1人1人にくじを引かせると、アカンがその1人であることがわかりました。それでヨシュアはアカンに「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。私に隠してはいけない。」と問い詰めると、アカンは正直に「確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。――私はシンアルの美しい外套1着と、銀200シェケルと、重さ50シェケルの金の延べ棒があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあります、銀もそこです。」と答えました。調べてみるとアカンが言ったものはその通りに天幕の地面の下にありました。それでヨシュアは全イスラエルとともにアカンとその家族、取った聖絶のものや所有物をすべてアコルの谷に運んで行き、そこで石打ちで処刑して聖絶のものとしました。

罪を犯した1人をさばくことで全体を救う。それが主のなさることなのです。私達は人間的には“盗みの罪だけでしかもキチンと罪を告白したのに処刑されるのは厳しすぎる。“と思うかもしれません。けれども私達はアカン1人の罪によってイスラエル全体が聖絶の者とされて災いを被ることの重大さを考える必要があります。もしそうなれば、イスラエル全体に災いが及び、アカンの罪とは関係のない多くの人達までが災いを被り、下手をすると、それはイスラエルの滅びにつながったかもしれません。だから罪を犯したアカンだけがさばかれたことにむしろ“確かに神の義が表わされた”と主を崇めるべきなのです。そして、今も基本的に同じことが神の義です。今も罪を犯した人達がアカンのようにキチンと罪に定められ、適切にさばかれることが必要です。それが正しく適切になされず、さばかれるべき人達がさばかれないから、社会は罪を温存し、温存した罪によって内側から腐敗し、やがて滅びてしまいます。だから、罪を犯した1人をさばいて全体を救うことは今も神の義なのです。

ところで、アカンの罪を自分の問題として考えると、また違った恵みが見えてきます。罪を犯したアカンがさばかれたのは当然のことですが、私達も彼と同じようなことをやりかねません。ほんの少し気が緩んだり、ついカッとなって愚かなことを言ったりしたり私達にもアカンと同じ罪の性質があります。だから“アカンが可哀想だ”と弁護したくなります。私達は自分自身のきよさや正しさを求める必要がありますが、そうして示されるのは罪の現実だけです。それだけでは救いがありません。けれども、私達には、私達の罪を代わりに負ってくださるイエス様がいます。

「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」2コリント5:21

アカンを罪に定めた神は、1人の罪のないイエス様を罪に定めることで私達を救って下さいました。私達はきよく正しく生きようとすれば、罪の現実を示されます。けれども、その罪がイエス様の十字架によって赦されて恵みとなります。それが神の義であり、救いです。それほど素晴らしいことは他にはありません。私達に誇れることはありませんが、十字架の血によって罪を恵みに変えてくださるイエス様は誇れます。自分がアカンと同じような者であることを認めながら、でも自分にはイエスキリストがあることを感謝し、主の御名を崇めて、キリストを誇りとし、キリストの良い知らせを多くの人達に宣べ伝えていきましょう。