使徒27:1-26

“神はみんなをあなたに与えてくださる”  内田耕治師

 

“みんなを与えられる”とは人々に祝福をもたらす者となれることです。パウロはそのような存在としてローマへの船旅をすることができました。エペソにいた頃、御霊によってマケド二ヤとアカヤの諸教会で献金を集めてそれをエルサレムの貧しい人達のために持っていくことにしたとき「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と、行く計画はなくてもまずローマに対する思いが与えられていました。

その頃、パウロがエルサレムに行くことには様々な困難が予想されました。パウロのことを思ってエルサレム行きを思い留まらせる忠告がありましたが、パウロは御霊によって示された道だとして強引に行きました。パウロがエルサレムに着くとすぐにユダヤ人に命を付け狙われてローマ軍に保護され、カイザリヤの総督官邸に監禁され、ユダヤ人に訴えられ、それに対してカエサルに上訴したためにローマに行くことになりました。初めローマに行く計画はなかったですが、不思議な導きでローマに行くことになり、彼はそれを神のご計画であると確信しました。

まずアドラミティオの船に乗ってローマへの旅を始めました。同行した人達には「私達」とあるように使徒の働きの著者であるルカやおそらくテサロニケ伝道で救われたアリスタルコがいました。またパウロをローマに連れて行くユリウスという百人隊長がいました。彼はシドンに入港したときパウロが船を下りて友人に会うことを許したようにパウロに対して好意的な人物でした。また彼はパウロの他にも兵士達や数人の囚人を連れていました。

今のトルコの地中海側にあるミラに入港して、そこでイタリヤへ行くアレクサンドリヤの船に乗り換えました。その船はずいぶん大きくて船長を始めとしてパウロ達を含めて総勢276人の人達が乗りました。その船はミラを出て今のトルコ沿岸に近いところをエーゲ海方面に向かいましたが、風のせいで船の進みが遅く、やっとのことでク二ドの沖まで来ましたが、風のせいでそれ以上進めないので、クレタ島のほうに舵を切ってサルモネ沖のクレタの島陰を進みました。やっとの思いでラサヤの町に近い“良い港”と呼ばれる所に着きました。普通よりも時間がかかり過ぎて断食の日は過ぎてしまい、航海には危険な時期に差し掛かっていました。断食の日とは今で言うと11月頃です。けれども、“良い港”と言われた所は冬を過ごすには適していないので船長は同じクレタ島のフィニクスまで行こうとして船を出しましたが、そこに行く途中、急にユーラクロンという暴風が吹き下ろして来て船は巻き込まれ、地中海を漂流しました。

船を出すときパウロは「皆さん。私の見るところでは、この航海は積荷や船体だけでなく、私達のいのちにも危害と大きな損害もたらすでしょう」と警告しました。ただし、船を出すかどうかの判断は船長がするもので船乗りではないパウロは判断する権限はありません。では、どうして発言権のないパウロはそう言ったのか?おそらくパウロは以前に伝道旅行で船に乗ってこの海域を移動した経験が何度かあって船乗りではないけれども、断食の日が過ぎた季節の航海は危険だとよく知っていたからです。これは常識的な意見です。一方、そこは冬を過ごすには適していないから同じクレタ島で非情に近いフェニクスに行くことも常識的な判断ですが、思いがけずユーラクロンが吹いて来て巻き込まれ結果としてパウロの意見のほうが正しかったということになりました。

けれども、ここで大事なことはフェニックスに進んで急にユーラクロンに巻き込まれて酷い試練を通され大変な思いをする中で船の人達がパウロの存在に目が開かれることにありました。初めのうちは何とか助かろうと出来るだけの努力をしていましたが、自然の猛威になすすべがなく、流されるままになってしまいました。太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れました。大半の人達は“もうダメだ、我々は海の藻屑として消えていくのか”と希望を失いかけていました。そのようなときにパウロはまず「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです」と語りました。今さら、彼らの判断の誤りを指摘してももう遅いのですが、パウロは責めるつもりはなく、その後を読めばわかるように希望をなくしていた人達を励まそうとしていました。

「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は1人もありません。失われるのは船だけです。」船が沈めば、こんな暴風と悪天候ではとても助かりません。海の藻屑となって沈んでしまいます。しかし、パウロは船だけが失われて、だれもいのちを失うことがないと断言しました。なぜそう断言できたのか?

その根拠は「恐れることはありません。パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人達を、みなあなたに与えておられます。」という神の声でした。船にいた276人の中でたった1人のパウロは小さな存在でした。パウロがどんな者か、一部の人達は知っていても、大半の人達は知りません。けれども、そんな中で神はパウロを周りの人々を祝福するために置いていました。

その祝福とは、福音やみことばを伝えて救いに導くことではないですが、試練の中で希望を失いかけた人達に励ましや希望を与えることでした。「皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。私達は必ず、どこかの島に打ち上げられます。」このことばはどんなに励ましとなったことでしょう。

ところで、私達もパウロと同じようにそれぞれその置かれた所で与えられた人達があります。自分の家族、教会、職場、学校などはよく知っている人達あるいは、ある程度か少し知っている人達です。またパウロみたいに、たまたま電車やバスや船や飛行機に乗り合わせた人達がいます。私達には神から任された人達がいるのです。でも、あの人達もこの人達も神が自分に与えて下さった人達だと考え出したらキリがなく、疲れてしまいますから、生真面目に考える必要はありませんが、主の導きによって“この人達は神が与えて下さった方々だ、この人は神が与えて下さった方だ”と思える時があります。そんな時こそ、私達に出来ることをするべき時です。その時こそ神から与えられた良い機会です。だから機会を生かして与えられた人達のために何かすべきなのです。

またパウロは必ず無事にローマに着いてカエサルの前に立つことができるという確信がありましたが、私達にもある確信があります。それはパウロも持っていたものですがイエスキリストを通して必ず天国に行けるという確信です。その確信があるからこそ、神は私達にあの人やこの人、あの人達やこの人達を与えて下さいます。そういう人達に福音を伝える機会が時々与えられます。機会が与えられたら、福音を伝えるべきだし、そのために普段から備えておくことを聖書は勧めています。

けれども直接、福音を伝えることは出来なくても、何かしらできることはあります。小さな助けや励ましを与えることが出来ます。むしろ、そういうもののほうが良い場合もあります。さらに私達の存在があるだけで人々に安心感を与えるということもあります。イエスキリストを通して必ず天国に行くことが出来る。その確信が人々に希望や安心感を与えることが出来れば幸いです。