マタイ5:21-26

“和解への道筋”   内田耕治師

 

今日は講壇交換の予定でしたが、台風が来ているので10月14日に延期になり、急遽、私がメッセージを取り次ぐことになりました。“和解への道筋”という題でお話しします。

前のところの復習から始めます。20節に「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」という衝撃的なみことばがありました。律法学者やパリサイ人はイエス様がおられた当時、律法を行うことによる義を非常に熱心に求めた人達ですたが、そんな人達よりもまさる義がなければ、天国に入れないとしたら、一体だれが天国に入れるのかということになります。それは衝撃的なことですが、それはどういうことかというと、律法学者やパリサイ人の義とは、戒めや掟を外面的に重箱の隅をつつくように守り、だれからも批判されないようにすることでした。一方、律法学者やパリサイ人にまさる義とは、もし彼らと同じように外面的に、彼ら以上に細かく熱心に戒めや掟を守るということならば、それは無理な話です。だから、そうではなくて彼らとは違う基準を持つことです。

彼らの基準によると、外面的に戒めや掟を熱心に守ればその内面を問われることがなかったですが、彼らにまさる義とは、外面的には問題がなくても心の中でどんな思いを持っているか?内面を問われるということでした。それで今日の箇所でイエス様は内面の問題の1つとして、心の中に気に入らない人の存在を否定する思いを持ってしまう問題を取り上げています。

21節をご覧ください。朗読。イエス様は「殺してはならない。」という戒めを取り上げました。律法学者やパリサイ人がしたようにこの戒めは外面的なことだけで考えると、心の中で何を考えても、どんな思いを抱いても、とんでもないことを考えても実際に手を出さなければ問題になりません。心の中のことは問われません。けれども、内面の問題を考えると、私達は手を下さなくても自分の思いで人を殺してしまうことがあります。殺すとは、ナイフで刺すとか崖から突き落とすことだけでなく、相手の存在を否定する思いを持つこと自体が殺すことです。だから、その思い自体を無視しないで神の前に問うていくことが律法学者やパリサイ人にまさる義です。以上が前回の復習です。

さて相手の存在を否定する思いを持つことは、私達の人間関係を拗らせてしまいます。互いに愛し合う関係であるべきなのに、相手を否定することで愛が冷えた難しい関係にしてしまいます。そして難しくなった関係を回復することは容易なことではありませんが、放っておいていいということは決してありません。何とか拗れた関係を修復する必要があります。ですからイエス様は拗れて難しくなった関係を何とか回復するためにこの箇所を語りました。24節の「あなたの兄弟と仲直りしなさい」とか25節の「早く和解しなさい」という箇所を見れば、たちどころにそれがわかります。だから、この箇所は拗れて難しくなった関係を回復するための教えなのです。この箇所を学ぶ前にそのつもりで学んでほしいと思います。

ところで私達は自分のことはわかっても、人のことはなかなかわからず理解しようとしない者です。私達は極度の近視眼で自分のことしか目に入らず、身近にいても人のことは目に入っていないので、相手を考えないでついつい自分の義だけを主張する傾向を持ってしまいます。そして自分の義だけを主張し出すと、それと合わない人を否定する思いを持つようになります。そして心の中の思いはよく言葉や態度となって表に出て来るものです。ルカ6章に「人の口は心に満ちているものを話す」と書いてある通りです。だから、もし私達のうちに相手を否定する思いがあるならば、その思いは私達の言葉や態度に現れてきます。

今日の箇所でイエス様がまず取り上げたのは「兄弟に対して怒る」という態度です。怒るほかにも良くない態度はいろいろありますが、それは自分を義として相手を否定することです。私達は案外知らず知らずのうちにそうなりやすいものです。そして否定された相手は反発して私達に対して怒ったり、また恨みを持ったりします。その結果、互いの関係は拗れてしまいます。だから、イエス様は「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません」と言って怒りはすべて自分を義として相手を否定する罪であるとしました。また「ばか者」とか「愚か者」と言って貶すことも相手を否定することです。貶す言葉はほかにもいろいろありますが、貶された相手は心に傷を受け、恨んだり反発したりするようになります。その結果、互いの関係は難しくなります。だからイエス様はそれらの罪は「最高法院でさばかれる」とか「燃えるゲヘナに投げ込まれる」という厳しい口調で断罪しています。どうしてこれほど厳しく断罪しているのか?それは相手を否定することが問題の根だからです。それが互いの関係を拗らせ、難しくする根本原因だからです。

次にイエス様は拗れて難しくなった関係を回復するために、私達自身が関係を拗らせた加害者だという自覚を持つことを教えています。人間は加害者と被害者とどちらになりやすいか?圧倒的に被害者になりやすいものです。“あの人に嫌なことを言われた、だから自分はやる気をなくした”とか“あの人が冷たくした、だから自分は落ち込んだ”と言って自分は被害者だと主張しやすいものです。特に戦争の問題は厄介です。どの国も加害者であることはあまり言わず被害者の面ばかりを言い続けます。なぜか?被害を受けたことはよく覚えているけれども、被害を与えたことは忘れやすいからです。

けれども、みんなが自分は被害者だと言い続けるとしたら、どうなるか?いつまでもお互いに非難し、お互いに文句を言う合い、いつまでも関係の回復を拒むことになり、いつまでも和解の手続きを始めることが出来ません。では、どうしたら仲直りできるのか?どうしたら和解できるのか?23節に「兄弟が自分を恨んでいることを思い出し」とあるように加害者である自分に目を向けることです。

この箇所に出て来る「怒るとか“ばか者、愚か者”と言って貶す」とかは 私達自身がよくしていることです。私達はこの箇所を読むとき、まずこれは“怒りっぽく”て気軽に“バカ者、愚か者”と言って“人を貶しやすい”癖のある人のことだと思うかもしれません。けれども、私達は気づかないうちにそれをしています。たとえば、多数派に属する人は案外、自分達が正しいと思ってまったく疑うことがなく、少数派イコール間違いという態度で臨んで“そんなことも知らないのか”と相手を貶す言い方をしても、自分はごく当たり前のことをしているだけで相手を否定しているなんて思うことはありません。でも、相手を否定しています。また気の強い人はついつい気の弱い人を軽く見たり、社会的立場のある人はそれがない人を軽く見たり、お金のある人はそれがない人を軽く見たりすることがあります。あからさまに怒ったり貶したりしなくても、ちょっとした態度や言葉で相手を否定してしまいます。

問題の核心は心ない一言や態度で人の存在を否定し、しかも、否定したのにもかかわらず、それに気がついていないということなのです。だからイエス様は「兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら」と言うことによって自分が加害者だという面に目を向けることの大切さを教えています。24節以降には「ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」とか「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。」と書いてあります。ようするに早く和解しなさいということです、それはまったくその通りです。

けれども、自分が加害者である面にまったく目を向けていなかったら、どうなるでしょうか?“自分は何も悪いことをしていないのに、なぜ謝る必要があるのか?”と言うことになります。そんなことではますます関係が拗れ、仲直りも和解も出来ません。その結果「――牢に投げ込まれることになります。」だから「兄弟が自分を恨んでいることを思い出して」自分が加害者であるという面に目を向けることが必要です。それが和解への道筋です。自分が加害者であるという面に目を向けることは、自分をどう考えるか、人間をどう考えるか、という人間論の問題に関わります。私達は聖書を通して人間が神の前に罪ある者であることを信じています。私達が罪ある者であるとは何か? それは高ぶって怒ったり貶したり軽くみたりで人を否定する間違いを犯しやすいということです。それが私達の抱える現実です。だから自分は加害者であるという面に目を向けるとは、その現実を率直に認め、自分が神の前に罪ある者だという真理を名実ともに認めることです。それは主の前に私達がへりくだることであり、それは主の喜ぶことです。神の前に罪ある者だと認めながら、人の前には過ちを認められない。それは矛盾ではないでしょうか?

また自分は加害者であるという面に目を向けるとは、相手を思いやること、すなわち相手への愛です。たとえば、だれかに傷を負わせたことを率直に認めたら、そこから相手を思いやることが始まります。思いやりとは愛です。また相手は、加害者である私達が自分の非を認めて愛をもって来たなら、どうするか? 赦すように導かれます。相手が赦すことができれば、和解は成立し、拗れた関係は回復します。時には、傷があまりにも深くてスンナリ赦すことが難しい場合もあります。自分の非を認めたら、いつでもすぐに上手く行くとは限りません。拗れた関係を回復するのは難しいことです。けれども、それは覚悟の上で始めるほかはありません。和解に向けて努力を始める必要があります。そして、それは「兄弟が自分を恨んでいることを思い出して」とあるように、自分が加害者であるという面に目を向けることから始まるのです。