ヨシュア24:1-28 

“私と私の家は主に仕える”  内田耕治師

 

イスラエル人が約束の地に入って占領してすべての部族が相続地を獲得し、生活が軌道に乗って安定してきた頃のことでした。ヨシュアが生きている頃はまだ何とかまとまりがあり、イスラエルの唯一の神を崇めていましたが、イスラエル人の心はじわじわと拡散してまとまりがなくなり、唯一の神からも離れかかる兆しが出始めていました。その証拠に次の士師記の時代は、それぞれが自分の目に良いと見えることを追い求める世の中になりました。年を取ったヨシュアはイスラエル人のそのような霊的な状況がわかっていました。だからヨシュアは最後の仕事としてイスラエル人の原点を表すシェケムに全部族を集め、長いメッセージを語り、イスラエル人と契約を結びました。その契約とはイスラエル人を選んで下さった主に仕えることを再確認するためのものでした。その契約の結び方は、イスラエル人自身を証人にするとか、文書にするとか、そばにあった石をすべてのことを聞いていたので証しにするというやり方をしました。

さてイスラエル人を選んだ唯一の神、主を神とすることは、イスラエル人がその神にキチンと仕えているかどうかで分かります。だからそのメッセージで、ヨシュアはアブラハム以来、イスラエル人が数々の恵みをいただいて歩んできたことを十分語ったあとで、選んで下さった主に仕えるべきことを語りました。

「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。」唯一の神だけを神とするとは、偶像の神々を取り除くことであり、それが選んで下さった主に仕えることです。「主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」一見不可解に見える所があります。主がイスラエル人を選ぶのにイスラエル人に主を選ばせるとは何事か?不満なら他の神々を選んで仕えなさいとは何事か?私は講壇からこんなことを語ったことはありませんが、ヨシュアはどうしてそんな言い方をしたのか?それには理由があります。

主に仕えるとは、指導者に命じられたから仕えるのではないし、みんなが主に仕えるから仕えるのではないし、我慢して嫌々仕えるのではないし、ましてや指導者に気に入られるために主に仕えるのでもありません。主に仕えるとは、1人1人が主に選ばれたことを自覚して1人1人が進んで主に仕えることです。他人はどうしようと「私と私の家は主に仕える」と言えることが、本当の意味で選んで下さった主に仕えることです。当時は指導者の権力が強大な時代で個人の自立という意識もあまりない時代です。でも、主に仕えるとはそういうことだから、ヨシュアは人々を突き放すことで1人1人の心を探り、自分は主に選ばれた者だという自覚に立って主に仕えるように導きました。

ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」同じことを教えているのではないでしょうか。

「あなたがたは主に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたむ神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす」私は講壇からこんな厳しいことを語ったことがないですが、どうしてヨシュアは語ったのか?

厳しい現実の中で無理難題を突き付けられてもついて行く。それが本物の服従であり本当に主に仕えることです。楽な話ばかり聞いているうちは仕えていたけれども、厳しい話を聞いた途端に主に仕えるのをやめたでは、本当に選んで下さった主に仕えることになりません。すべては主のお導きだから、どんな所でも、たとえ試練や困難ばかりでも、その置かれたところで主に仕えることが本当に主に仕えることです。つまりヨシュアは厳しいことをどんどん話してイスラエル人を追い詰めて“そんなに厳しくても自分はついて行く”という本当に主に仕える覚悟を引き出そうとしたのです。

「主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さない」自分は裁かれるような背きも罪もないと言える人は1人もいません。もしそう言う人がいるとしたら、その人は嘘つきです。私達にはキリストの十字架の血潮による罪の赦しがありますから裁かれて地獄に落ちることはないことはわかっていますが、このみことばは主のきよさを知らせて私達にチャレンジを与え、本当に主に仕える覚悟を引き出してくれます。新約聖書にも別の方向からチャレンジを与え、本当に主に仕える覚悟を引き出してくれるみことばがあります。第二テモテ3:12の「キリストイエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな迫害を受けます」進んで迫害を受ける必要はありませんが、イエス様を信じて敬虔に生きようとしたら必ず迫害があります。だから、もし何の迫害もないような信仰生活なら、それほど敬虔な生き方ではない、つまり、この世と妥協した生き方だということになります。そう言われると、チャレンジです。

迫害と言えば、パウロは自分が迫害を受けたことをあからさまに語っています。第二コリント11:23-30が有名です。パウロは福音のために凄い生き方をしました。私達はパウロと同じ人生を歩む必要はないし、同じ人生を歩むことは出来ません。けれども、彼の人生は自分とはまったく関係がないと思うべきではありません。私達はパウロの人生に触れることでチャレンジを受けます。それは私達も選んでくださった主に仕え、迫害を受けるほど敬虔に生きることを目指すためなのです。