使徒2:22-33

“あなたにとってキリストの十字架と復活とは何か”  内田耕治師

 

今日、ほとんどの人々が2000年前、キリストが十字架にかけられて殺されたことを歴史的事実として知っています。しかし、多くの人達はキリストの十字架を知っていても、それは自分の生き方や人生とは関係のないことだと思っています。そういう人達にキリストの十字架を伝えるのは、実際、骨の折れることです。私達とそういう人達の間には非常に大きなギャップがあります。

2000年前のペンテコステの時も弟子達とエルサレムの人々の間には大きなギャップがありました。当時の人々も現代人と同じようにキリストの十字架がわからず、イエス様の復活を信じていない人達でした。けれども、ペンテコステで3000人の人達が悔い改めてイエス様を信じて世界最初の教会が誕生しました。どうしてそんな奇跡的なことが起こったのか?それはペテロに凄い力があったからではなく御霊つまり聖霊の働きです。

「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです」

エルサレムの人々は、ローマから解放してユダヤ人の国を興してくれる政治的メシヤを待ち望んでいました。ナザレ人であるイエス様は、力あるわざと不思議なしるしをしていたので人々は“この方がキリストかもしれない”と思って大歓迎しました。けれども、彼らは祭司長達や長老達にそそのかされて手の平を返すように「十字架につけろ」と叫んだのでイエス様は十字架にかけられ殺されました。ペテロは、あなたがたが、律法を持たない人達つまりピラトやローマの兵士達の手によって殺したナザレ人イエスがキリストなのですと語りました。つまり、それとなくイエス様を十字架にかけた罪を明らかにしました。キリストの十字架がわかるには、キリストを十字架にかけた人間の罪がわからなければなりません。福音を伝えるには、どうしても罪のことを語らなければなりません。だからペテロは極めて普通のやり方で福音を伝えました。

けれども、政治的メシヤを待ち望み、キリストがこの世の王となることを願っていた人々がすぐにキリストの十字架を理解し受け入れるのは難しいことです。それを理解させるのは人間の力では無理なことです。けれども、ペンテコステではその後、すぐに3000人の人達が信じました。それはペテロの働きではなく、御霊の働きと言うほかはありません。

「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」

エルサレムの人々は祭司長達が流した“弟子達が夜来て墓から遺体を盗み出した”という噂を信じていました。だから、弟子のペテロがイエス様はよみがえったと言っても、納得するとは思えません。だからペテロは、旧約聖書詩篇16篇を引用してイエス様の復活を語りました。

「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」

ペテロは極めて普通にみことばを根拠にしてイエス様の復活を伝えました。けれども、“弟子達が夜着て遺体を盗んだ”と信じていた人達がすぐに納得してイエス様の復活を信じるのは難しいことです。それは人間の力では無理なことです。けれども、ペンテコステではその後すぐに3000人の人達が信じました。それはペテロの働きではなく、御霊の働きと言うほかはありません。

さらにペテロは“イエス様が永遠の神の国の王となるキリストである”と語りました。彼は旧約聖書の預言から先祖のダビデは自分の子孫の1人を王座に着かせ、その1人が神の国の王様になることを予見してキリストの復活について「彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない」と同じ詩篇16のみことばを用いて繰り返し語りました。「朽ちて滅びることがない」とは永遠に生きることです。十字架にかけられて死んで復活したイエス様は、永遠に生きるお方であり、永遠の神の国で王となられるお方なのです。エルサレムの人々は“まったく思いも及ばないことを聞かされた”と思ったでしょうが、3000人が信じるように導かれました。それはペテロではなく聖霊のみわざです。1コリント12:3「聖霊によるのでなければ、だれも“イエスは主です”と言うことができません。」みことばだけでなく御霊つまり聖霊の働きによって人は主を信じて救われます。だから私達には福音を伝えることはできても、人を信じさせ救うことは出来ません。人に信じさせて救うことは主のみわざです。

ところで、そのことは私達に慰めと励ましと賛美を与えてくれます。一生懸命、みことばを伝えているのに救われる者が起こされない。日本ではそういうことがよくあって疲れを覚えます。けれども、私達は出来得る限りみことばを伝える責任を果たしたら、後は御霊にお任せしたらいいのです。自分を責める必要はありません。これは慰めです。また相手によっては自分ごときが伝道しても、とても歯が立たないように見える人達がいます。たとえば、自分よりもはるかに知識のある人達や全然、別の世界に生きる人達など自分の力が及ばないと感じさせる人達です。また信じやすいように見える人でも関わってみると手強いものです。もし自分がそんな人達を自分の力で救いに導かなくてはならないと考えたら恐れて伝道できません。けれども、救いに導くのは私達ではなく御霊です。それを思い出したら気が楽になって伝道の励ましが与えられます。かつては人を恐れたペテロが大胆にみことばを語れたのは御霊の働きを信じていたからです。御霊は恐れる者に励ましを与えて立ち上がらせてくれるのです。

最後に、人はだれでも私達の力では到底、導くことができない手強い相手ですが、そんな相手を御霊が適切に導いて信仰を与え救って下さることを見ることによって“やはり主のなさることは素晴らしい”と主を賛美することができます。私達は導かれにくい人達をも見捨てないで、祈り続け、みことばを伝え続けて自分の力のなさを思い知らされることによってますます主を賛美できるようになるのです。ますます御霊の働きを見て、主をますます賛美できるようになるために、諦めることなく、倦まずたゆまず祈って福音を伝えて行きましょう。みことばを伝えて行きましょう。