コロサイ1:13-20
“キリストはすべてにおいて第一の者”  ボビー・べイデン師

私達が礼拝をささげる目的は何だろうか? それはイエスキリストを第一とすることである。
当時コロサイ教会には偽教師がしばしば訪れ、間違ったキリスト論を教えることがあったのでパウロは正しいキリスト論を手紙に書いて教えた。それがコロサイ書である。

まずキリストとは贖い主だ。私達はキリストに出会う前、霊的に死んで暗闇の力に支配された者だった。けれども、信じることでキリストの支配下に移された。贖いとは当時、奴隷を買い戻して自由にする金額だったが、キリストが贖い主であるとはキリストが贖いの代価を支払い、私達を罪の奴隷から解放してくださることである。その代価とはキリストの血である。贖いとは罪の赦しである。罪の赦しを受けた私達は人を赦すことが出来る。

キリストが「すべて造られたものより先に生まれた方」であるとは、時間的なことではなく、先に生まれた長男には特権や責任が付きまとうように、キリストは“先に生まれたことによって特別な権威と責任があるという優先順位の問題である。「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています」これも優先順位のことである。

キリストはキリストのからだである教会の頭である。「御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です」ナインのやもめの1人息子やラザロはキリストよりも先に復活したが、キリストは最初に復活した者だと言う。これも時間的なことではない。キリストがよみがえらなければ私達は
よみがえらないし、キリストがよみがえらなければ私達に永遠のいのちはない。だからキリストの復活は最初でなければならない。これも優先順位のことである。

「御子は、見えない神のかたち」「かたち」とはイメージ。私達はキリストを見るとき神を見る。キリストは目に見えない神が目に見えるかたちになったお方である。ヨハネ1:1「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ヨハネ1:14「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」「ことば」とはキリストであり「ことば」とは神である。ある異端は“自分はクリスチャンであると言いながらイエスは神ではない”と言う。けれどもイエスキリストは100%神であり100%人である。

「御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとし」イエスキリストは神と私達を和解させてくださった。
神と和解した私達には、和解の務めが与えられている。それは他の人達が神と和解できるように勧める務めである。またキリストは人間だけでなく、すべてのものを神と和解させてくださる。神の御子キリストは父なる神とともに万物を支配するお方である。だから私達は父なる神とともに御子をも礼拝する。キリストとは私達が第一とすべきお方なのである。