マルコ14:26-42
“主は選んだ者を見捨てない”  内田耕治師

「あなたがたはみな、つまずきます。“わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる”」ペテロを初めとして皆が反発。彼らは内心恐れて強がりを言ったのである。彼らはイエス様と同じ心ではなかった。だからゲッセマネで十字架を前にしたイエス様はもだえ苦しんだのに彼らは居眠りをし、イエス様の逮捕の時にはみんな見捨てて逃げた。その後ペテロは勇敢にもイエス様の後について行き大祭司の家に入ったが、召使いの女性に「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」と言われて慌ててイエス様との関係を否定し、結局、彼も恐れて主を捨てた。

「しかし、わたしはよみがえった後、あなたがたより先にガリラヤに行きます」イエス様は逮捕の前、自分とともに弟子達もガリラヤに行くと語った。彼らが脱落することは分かっていたが見限ってはいなかった。だから最後まで訓練しようとした。たとえば「今夜、鶏が2度鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言います」このみことばの目的は肉の力に拠り頼むペテロをわざとつまずかせて悔い改めに導き、御霊の力に拠り頼む者と変えることだった。その通りにイエス様を3度否定した後、鶏が鳴いてそのことばを思い出したとき泣き崩れて悔い改めた。でも、その悔い改めがあったからこそ、やがて彼は御霊の力によって人を恐れず大胆に福音を語る者に変えられた。

「シモン、眠っているのですか。1時間でも目を覚ましていられなかったのですか、誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい」見限っていたらそんなことは言わない。居眠りする情けない彼らを何とか訓練するためにそう言ったのである。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」まるで苦しみを共にする同士に語るようなことばだ。
見限った人に言うことばではない。主は弟子達を見捨てず最後まで訓練を続けたのである。だから彼らは主が去った後、大きく用いられて宣教の働きをして教会を建て上げることが出来た。

ところで弟子達が主に選ばれたのと同じように私達1人1人も主に選ばれた者だ。主は弱さを抱える私達を見捨てずどこまでも期待し訓練し用いようとする。だから私達の長い信仰生活で最も大事なことは、どんなことがあっても主は選んだ自分を見捨てないと信じ続けることだ。自分は何も良いところがないと思っても、主は自分を見捨てることはないと信じ続けるならば、その信仰によって私達は救いを受けて天国に行くことが出来るからだ。

私達が主は自分を見捨てないと信じるならば、その信仰は次に私達が他の人を見捨てないという姿勢を持つことにつながる。その良い例が人にキリストの福音を伝えて救いに導く伝道だ。伝道は、収益や利害のためにすることではなく、純粋に魂の救いのためにすることだ。魂の救いとは、自分を見捨てない主を人に紹介して自分と同じようにその人も“主は自分を見捨てない”という信仰を持つようになることだ。その場合に“ある人達はとても見込みがない”ように見えてくる。けれども“だれを救い、だれを救わないか”は全能の神の領域だから、私達はどんな人でも見限ることなく気にかけて祈りに覚える。その営みから私達は人を見捨てない姿勢を学ぶことが出来るのである。