使徒1:1-5
“キリストの復活から昇天までの40日間” 内田耕治師

キリストの復活からペンテコステは50日目だが、40日目に昇天がある。ノアの洪水とか、出エジプトから約束の地に入るまでとか、イエス様のバプテスマ後の断食とか聖書には「40」がよく出て来る。
それらは新しい段階に入る移行期間を表わす。移行期間にそれぞれ意味があるが、キリストの復活から昇天までの40日間は弟子達が見て信じる信仰から見ないで信じる信仰に移行するためである。
「40日間にわたって彼らに現れた」イエス様は弟子達の前にまずエルサレムで現れ、故郷のガリラヤで現れ、エルサレムに戻ってからも現れた。イエス様は十字架以前、弟子達といつも一緒にいて手取り足取り教えたが、復活から昇天までの間はいつも一緒ではなくて要所要所で姿を現わして教えた。十字架以前に教えるべきことは教えたからだ。これからはイエス様がいなくても歩めるように準備したのである。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」
十字架以前の弟子達はイエス様のわざを見て信じていた。でも、それらはなくなり、残されるのはイエス様が教えたみことばだけになる。だから見ないで信じる信仰とはみことばを信じる信仰だ。でも、人がみことばを信じる信仰になるにはあるお方を必要とする。そのお方が聖霊である。1コリント12章「聖霊によるのでなければ、だれも“イエスは主です”と言うことは出来ません」

弟子達の信仰の持ち方は私達と違う特殊なケースだ。私達は初めからみことばだけでイエス様を知り、御霊が働いて信仰に導かれた。一方、弟子達は初めイエス様の姿やそのわざを見て惹かれ、みことばを教えられた。けれども御霊は注がれていなかった。彼らは肉のイエス様を失った後で御霊が注がれ、みことばと御霊によって歩むように定められていた。イエス様は前からそのことを教えていた。ヨハネ14章「わたしは父にお願いすると、父はもう1人の助け主をお与えくださり、――――すべてのことを教え、思い起してくださる」 弟子達はイエス様からたくさんのみことばを学んだが、その意味がよく分からなかった。けれどもイエス様が去った後、御霊が注がれると、御霊によってみことばを悟り、御霊によってみことばを宣べ伝えることができるようになった。一人前のみことばと御霊によって歩む信仰になったのである。

ところで、初めからみことばと御霊によって信仰に導かれた今の私達は弟子達とは状況が違う。
“自分はどうも信仰の力が足りない。もしかしたら御霊が足りないか、ないのではないか”と思い、自分を変えたくて聖霊のバプテスマを求め、それを受けなければ救われていても足りないところがあるとか、それを受けたら異言が与えられるなど極端なことを言う人達がいる。けれどもキリストを信じているなら聖霊はすでに私達のうちにある。“信仰の力が足りない”はだれもが多かれ少なかれ思うことだ。けれども特別な霊的体験をして当初は恵まれても熱が冷めれば何も変わっていない自分に気づく。空しいことだ。むしろ私達が変えるべきことは、日々のみことばや祈りに対する姿勢である。みことばと御霊による信仰は、みことばを読み、祈ることによって養われるからである。