ヨシュア1:1-18

“みことばとともに生きる”   内田耕治師

 

ヨシュアはイスラエル人を無事、約束の地に移住させてイスラエルに新しい時代をもたらした人物です。ヨシュアはダビデほど大変な試練や問題を抱えて苦しんだのではありませんが、彼の心の中では私達と同じようにいろいろ戦いがあったと考えられます。けれども、彼はみことばによってその戦いを乗り越えて主から与えられた使命を見事に成し遂げることが出来ました。だからヨシュアこそ“みことばとともに生きる”ことを教えてくれる存在です。彼を通して“みことばとともに生きる”とは何なのか?学びます。3つのことをお話しします。

1つ目は折に適ったみことばが与えられることです。ヨシュアはかつて若い時、1回だけほんの少し約束の地を見ましたが、1回見ただけではよくわからないですから、まだよくは知らないその地に人々を引き連れて入ろうとしていました。1人で未知の地に入ることだけでもチャレンジなのに、人々を引き連れて未知の地に入ることはもっと大きなチャレンジだったと考えられます。だから、その使命を成し遂げることはそう簡単なことではなく、ある困難がありました。では、その困難とは何でしょうか?

それは偉大な指導者モーセの後に立てられた者だということです。最初に立てられた指導者は偉大で絶大な権威を持ち、鶴の一声でみんなが従いますが、一般的にその後に立てられた指導者は大変です。なぜなら、前にいた指導者ほどの権威を認めてもらえないことがあるからです。だから次のみことばが与えられました。

1:2-6「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立って―――――――――――――あなたの一生の間、だれ1人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。」

その時、ヨシュアが置かれていた状況にピッタリの折に適ったみことばです。それがヨシュアの支えとなっていました。そしてそのみことばは、聖書のみことばでした。みことばが与えられたと言うと、私達はパッーと天から神の声を聞いたと言うことがあります。そういうことも否定はしませんが、天から神の声を聞くことばかりを求めだすと、神がかりになったり異端的な信仰になったりで変な方向に走ってしまいます。だからヨシュアに与えられるみことばとは、かつて書かれた本つまり聖書のみことばが私達の状況に応じて与えられたものなのです。たとえば、先程上げました「わたしはあなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」はかつて主からモーセに与えられて語り、律法の書である申命記に記されたみことばです。モーセに与えられたみことばはヨシュアに与えられたみことばになったのです。私達にも同じことが起こります。以前読んでも何とも思わなかった聖書のみことばがある時、“これこそ自分に与えられたみことばだ”と思うことがありますが、モーセやヨシュアに与えられたみことばは、21世紀に生きる私達に与えられるみことばとなることが出来るのです。みことばとともに歩む生活とは、書かれたみことばが折に適ったみことばとして私達に与えられることなのです。

次に2つ目は書かれたみことばを心に蓄えることです。折に適ったみことばが与えられるためには、いつもみことばに触れることによってみことばを心に蓄えることが必要です。みことばの蓄えがかったら、折に適ったみことばも与えられません。だから、書かれたみことばを聞き続け、読み続けて心に蓄えることが、みことばとともに生きることです。

7節に「律法」ということばが出て来ます。「律法」とは神がモーセを通してイスラエル人に与えたみことばですが、それは早くから書き留められて書としてまとめられていました。それが書かれたみことばです。8節にも「このみおしえの書を」とあるように書かれたみことばが出て来ます。その書を「あなたの口から離さず、それを昼も夜も口ずさめ。そのうちに記されていることをすべて守り行うためである。――」と神のみことばをよく学んでそこから離れず守り行うことを勧めています。特に「あなたの口から離さず、それを昼も夜も口ずさめ」が心に留めるべきところです。現代人が本を読むとは普通黙読することです。聖書も黙読して読むことが多いですが、聖書はむしろみことばを声に出して読み、口ずさむことを勧めています。声に出して口ずさむとはどんな意味があるのか?鼻歌として歌われる曲は生活の中に入り込んでいる歌ですが、みことばを普段口ずさむとは、みことばが生活の中にあるということです。これは私達が今すぐにでも始められることです。ちょっとやる気を出せば出来ることです。だから黙読ばかりではなくて、みことばを声に出して読むことをお勧めします。教会で行う聖書朗読は声に出して読む良い機会です。さらにみことばは何度も繰り返し声に出して読んで暗記することをお勧めします。そのようにして普段の生活でみことばを口ずさむことを目指すのがみことばとともに生きる生活です。

3つ目は、みことばに従うことです。ヨシュアは指導者としてルベン族、ガド族、マナセ族の問題を抱えていました。以前モーセに導かれたイスラエル人は約束の地に行く途中、ヨルダン川の東側でヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグを打ち破りました。そして家畜をたくさん持っていたルベン人、ガド人、マナセの半部族が広い東岸の地域を相続地として要求したのでモーセはそこを彼らに与えました。けれども、それには条件がありました。それは彼らが妻子をその地に残して他のイスラエル人とともにヨルダン川を東から西に渡り、イスラエル人全部が相続地を得てから東岸にある自分達の相続地に帰るということでした。どうしてか?

かつて約束の地を目前にしながら、そこに強い民がいるから入って行けば滅ぼされるという斥候の報告がイスラエル人の意気を挫いた苦い出来事がありましたが、同じようにルベン族、ガド族、マナセ族がヨルダン川渡行から離脱することでイスラエル人の意気を挫く可能性がありました。そういうことを懸念して、モーセと彼らの間にその取り決めがなされ、彼らはそうすると誓いました。その後モーセはいなくなりましたが、ヨシュアは偉大なモーセの後に立てられた者でありながら14節「あなたがた勇士はみな、隊列を組み、あなたがたの兄弟たちより先に渡って行って、彼らを助けなければならない。」とキッパリと語るべきことを語ることができました。するとルベン族、ガド族、マナセ族の者達は「あなたの命じることは何でも行います」とか「あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います」と言ってヨシュアに忠誠を誓いました。つまりヨシュアが恐れないでみことばに従い、言うべきことを言ったから彼らも主に従うことが出来ました。このように、みことばとともに生きるとは、みことばに従うことなのです。

今の私達もまたみことばに従うことができるし、そうすることが出来るように主が私達のために祈っておられます。そしてみことばに従うならば、小さな私達でありながら、主のみこころを行うことが出来ます。それが、みことばとともに生きることです。第二テモテ3:16-17「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」

このみことばを心に留めて“みことばとともに生きる”ことに励んでいこう。