マタイ5:5

“主の前にへりくだる者は幸いです”  内田耕治師

 

聖書は新約がギリシャ語で旧約はへブル語で書かれました。私達は感謝なことに日本語訳で聖書を読めますが、日本語聖書の訳語の意味がギリシャ語やへブル語の言葉の意味とピッタリ一致しているわけではありません。日本語で“柔和”とは荒っぽくなくてやさしいという意味です。ギリシャ語でもプラエイス“柔和”とは日本語と同じように粗野でなくてやさしいという意味です。柔和な人とはつまり人格者です。けれどもそれは信仰とはあまり関係のない言葉です。

ところで”柔和な者“の背後にある旧約聖書のへブル語はアナビームという言葉ですが、アナビームは必ずしもギリシャ語や日本語のようなやさしさという意味ではありません。それはもともとは貧しさ、惨めさ、逆境を表わし、アナビームとは逆境にありながら嘆くのではなくて、へりくだって耐え忍び、主を待ち望む人を表します。交読で読みました詩篇37篇は、へブル語のアナビームを「柔和な人」と訳していますが、アナビームがどういう人かよく表しています。「主の前に静まり 耐え忍んで主を待て、その道が栄えている者や悪意を遂げようとする者に腹を立てるな。」「悪を行う者は断ち切られ 主を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。」

これはただ“大人しく、やさしい”こととは違うことです。アナビームとは苦しい状況をじっと耐え忍んでいく人のことです。では、どうして耐え忍ぶことが出来るのか?主への信頼があるからです。今の苦しい状況を主はやがて何とかしてくれるという主を待ち望む信仰があるから耐え忍ぶことができるのです。そして詩篇37篇はアナビームを「柔和な人」とも訳しています。それがマタイ5章の「柔和な者」の背後にあるのです。だから「柔和な者」を単にやさしい人格者と解釈するのは違います。またそういう人格者が地を受け継ぐ幸いな者だから、そういう人格者になれるように努めなさという努力目標だと解釈するなら、それも違います。どうして違うのか?そういう解釈には主を待ち望む信仰がないからです。つまり「柔和な者」とはたとえ頭をかかえるような問題があったとしても、たとえ希望を失うような状況に置かれても、そこから主を信頼し、主を待ち望むことができる人のことです。そういう人が「地を受け継ぐ」ことができるのです。

では「地を受け継ぐ」とはどういうことか?それは天の御国を受け継ぐこととは対照的にこの世の置かれた所で生きて与えられた人々を愛し、為すべきことを行い、目標の達成を目指し、良い証しを残し、次の世代のために良い遺産を残して行くことです。天の御国を受け継ぐことと、地を受け継ぐことと比べると、どちらが大変か?どちらに多くの苦労があるか? もちろん地を受け継ぐことに多くの苦労があります。「天の御国を受け継ぐ」つまり天国に入ることはどんなに落ちぶれても、どんなに貧しくても、何もできなくても、ただキリスト信仰さえあれば、成し遂げられることです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」神の前に救いようのない悲惨なものだと主の前に認めるだけで天の御国を受け継ぐことが出来ます。

けれども「地を受け継ぐ」ためには生きるための戦い、愛するための戦い、為すべきことを行うための戦い、目標を達成したり良い証しを残すための戦い、次世代へ良い遺産を残して行くための戦いがあります。そしてこの世は決まって私達の思い通りには行かないものです。バラ色の理想を掲げていたら、現実は全然違うことになるとか、希望をもって前進しようとすると、それを阻止することがどんどん起こるとか、やる気をなくすようなことを言われるとか、挫折して自分の無力さを思い知らされるとか、自分の力ではどうにもならないことが起こるとかーーー地を受け継ぐためにはいろんな戦いがあります。しかも、その戦いは短期決戦では決着がつかず、長期戦になるものばかりです。ガッカリさせることや希望を失わせるようなことが繰り返し起こります。だから、そんな中で何とか地を受け継いでいくには主を待ち望む信仰が必要です。

「柔和な者は幸いです」とは何が「幸い」なのか?主を待ち望む信仰で恐れから解放されるからです。

この世で生活している私達はこの世の規準で自分をさばくことがよく起こります。この世の規準とは簡単に言うと成功主義です。成功することだけが受け入れてもらえます。人々は成功した人をほめたたえ、自分のことも上手く行くことだけを受け入れる姿勢があります。もし上手く行かないこと、挫折すること、失敗することが起こると、もう目の前が真っ暗になります。あるいは自分の足りなさを認めたくなくて、上手く行かないのは人のせいだとか環境のせいだと思いたがります。すなわち、この世の規準で自分がさばかれるのを恐れているのです。これはだれにでもあることです。たとえ信仰があってもその恐れがあります。

けれども、そんな中で主を待ち望む信仰があれば、そういう恐れから解放されます。なぜなら、主に期待することが出来るからです。確かに“自分には足りない所がある、足りない所だらけだ、こんな自分では何もできない。自分はろくでなしだ。”と思ったとしても、“自分には全能の主がいるから主が何とかしてくれる”と思うことが出来ます。そう思うことが出来るから、柔和な者は幸いなのです。世の中にはそう思うことが出来なくて、恐れに押しつぶされる人達がたくさんいます。挫折感や敗北感を持つ人、ノイローゼになる人、引きこもる人、自殺する人、社会に反抗する人、―――いろいろいますが、それらは簡単に言うと、上手く行かない自分を受け入れることが出来なくてそうなるのです。

けれども、主を待ち望む信仰が持てる人は、自分は上手く出来なくても、主はやがて凄いことをして下さる、小さな自分を通して大きなことをして下さると期待することが出来ます。それが柔和な者が幸いだと言うことです。そしてイエス様を信じる私達は、主を待ち望むことができる幸いな者なのです。