ヨハネ1:6-13

“神の子どもとなる特権”  内田耕治師

 

この箇所は内容的に3つの部分に分けることができます。1つ目はこれから無名のイエスキリストが人々に知られつつあったこと。2つ目はイエスキリストは人々に受け入れられなかったこと。3つ目は拒否されたイエスキリストを受け入れた人々がいたこと。

まず1つ目は6-10節です。神の御子キリストは初めからおられ、神とともにあり、神であり、天地万物を造られたお方です。また永遠のいのちであり、人の光であり、その光は闇の中でも煌々と輝き続けるお方です。けれども当時のイスラエルでは初めイエスキリストはだれにも知られない無名の存在でした。それで、そんなイエスキリストを世に紹介する人物がまず現れました。それがバプテスマのヨハネです。

祭司ザカリヤとエリサベツの子として不思議な生まれ方をしたヨハネは将来を期待された知名度のある人物でした。だから多くの人々が彼のもとに集まり、彼の教えを聞き、バプテスマを受けていました。そんなヨハネのところに無名のイエス様は来られてバプテスマを受けると、天から御霊が鳩のように降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という神の声が聞こえて来て、イエス様こそ神の御子キリストであることが明らかになりました。それを見たヨハネは“このお方こそ私達が待ち望んだ救い主だ。”と証言するようになりました。「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである」ヨハネは自分がキリストではなくイエス様がキリストであることを世に紹介する存在であることを強調していました。それゆえ無名のイエスキリストが人々の前にその存在を現わそうとしていました。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」

次に2つ目は11節の「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」です。イスラエル人として来られたイエスキリストを同胞であるイスラエル人は受け入れなかったのです。イスラエル人は十字架にかけられたイエス様をメシヤつまりキリストであると認めませんでした。イエスキリストは人々にご自身を信じることを教え、その後の弟子達も主を信じることを教えました。けれども、イスラエル人は先祖から伝えられた律法や言い伝えを守ることを信じることよりも大事にしました。あるユダヤ人信者は異邦人信者にイエス様を信じただけでは救われない。律法に従って割礼を施すことが必要だと言って結局、信仰による救いを説くイエスキリストご自身を受け入れませんでした。

さらに異邦人がキリストを信じてキリスト者になったとき、あるユダヤ人信者はアブラハム以来、連綿と続いたイスラエル人だけが神の民であり、その他の人々は神の民から除外され、神の約束とは関係のない、望みのない人達だから救われないと言って全人類の救い主であるキリストご自身を否定しました。イエスキリストはご自分の民であるイスラエル人の所に真っ先に来られたのに、多くのイスラエル人は以上のようなことでイエス様を受け入れなかったのです。けれども、3つ目にそのように拒否されたイエスキリストを受け入れた人達がいました。12-13節です。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、――」彼らはただ信じることによってイエスキリストを受け入れました。キリストをただ信じることが私達の原点ですが、いつもその原点から外れないようにしなければなりません。そのために著者はその後、注意書きをしています。「血によってではなく」アブラハムから連綿と続くイスラエル人だけが神の民なのではありません。今も信仰の家系だから信仰が与えられるのではありません。信仰の家系に生まれることは、幼い頃からみことばを聞く機会があるという意味で恵みですが、神の子どもとなるのはあくまで本人が信じることによります。「肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ神によって生まれた」何か良いことをすれば救われるとか奉仕をすれば救われるとか子供をミッションスクールに入れたらキリスト信仰を持つとか、人間の願いや意志や努力によって救いが得られるのではありません。あくまで神によって生まれることでキリスト信仰を持ち、神の子供となる特権が与えられるのです。

神の子どもであれば、神は私達に相続財産を与えてくれます。それが永遠のいのちなのです。私達は、神の前に罪があり、箸にも棒にもかからない者なのに信仰によって神の子供とされ、永遠のいのちという凄い恵みをもらっています。この世の特権階級は、お金や地位や仕事など世間で一定の評価を得ていることで満足して“自分は特権階級だ”と自覚します。一方、私達が神の子供であることを世間は何も評価しませんが、私達は神が認めてくださるだけで満足してだれが何と言おうと自分は神の子どもだと言い張ればいいのです。特権にはその特権のない人達にその恵みを分かち合うことが伴います。この世で富める特権階級はその富を独り占めにしないで気前良く人々に分け与え、社会に貢献する責任があります。そうすることで助けを必要とする人達の多くが助けられて何とか立ち上がり感謝することができるし、また特権階級の人達も自分の富が用いられているという喜びを感じることができます。

同じように神の子どもとして特別に霊的な恵みを受けている私達はその恵みを多くの人達に分かち合うことが求められています。霊的な恵みを分かち合うとは何か?それは他の人達に神の栄光とキリストの福音を知らせることです。また霊的な恵みはお金などの物質的な恵みとは、異なる点があります。それは物質的な恵みは分け与えたら減りますが、霊的な恵みはいくら分け与えても減らないことです。それどころか与えれば与えるほど、自分自身はその恵みの素晴らしさがわかり、感謝できるようになることです。神の子供となる特権には以上のような凄い恵みが伴うのです。だから私達は霊的な意味で特権階級なのです。箸にも棒にもかからないのに、ただ自分の罪を認めてその罪のためにイエスキリストが十字架にかかられたことを信じただけで神の子どもとされる凄い特権をいただいたことを喜び、感謝し、大いにその恵みを人々と分かち合う1年として行きましょう。