士師1:1-2:5、へブル12:4

「妥協しないで主に従えーーボキムの涙」  内田耕治師

 

へブル12:4「あなたがたは罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません」

私達はイエス様の血によって罪の赦しを受けていますが、召されて天国に行くまではこの世で罪と戦う歩みをしなければなりません。罪とはまとわりつくものですから捨てたと思っても残っていたり、悔い改めたと言っても真底、悔い改めが出来ていないことがあり、私達は罪と戦ってまだ血を流すまで抵抗したことがないのです。

約束の地の占領事業を進めていたイスラエル人も血を流すほど自分達の罪と戦っていない人々でした。彼らは荒野から約束の地に入って以来、各部族は相続地を手に入れ、一見上手く行っているように見えました。けれども、ボキムに来た主の使いがもたらしたみことばによって彼らの抱えた大きな問題が明らかにされました。

出エジプト23:33「彼らはあなたの国に住んではならない。彼らがあなたを、わたしの前に罪ある者としないようにするためである。あなたが彼らの神々に仕え、あなたにとって罠となるからである」

これはイスラエル人が神と結んだ契約です。この契約は多民族の共生が課題とされる現代では違和感を与え、またそのやり方は決して現代社会で行うべきではないことですが、当時のイスラエル人が唯一神の信仰を守るためには必要なことでした。けれども、イスラエル人は妥協して契約をないがしろにし、異民族を追い出さず、かえって関わりを持つという大きな欠陥を伴う占領事業をしてしまいました。その問題は1章に詳しく書いてあります。ヨシュアが指導者だった頃、ヨシュアはいつでも先頭に立って戦い、各部族も彼に率先して従うようにしていました。けれども、ヨシュアという指導者を失った途端に、“だれかが行ってくれるだろう”とみんなが様子見をして率先して戦いに行く者達がいなくなり、主に従う信仰がめっきり弱くなっていました。主がユダ族を指名しますが、ユダは自分達だけで行くことができずシメオン族に声をかけ、一緒に行ってくれることでやっと重い腰を上げてカナン人と戦うことができました。ユダ族はエルサレムを占領しましたがエブス人を追い払うことができず、後でエルサレムを占領したベニヤミン族も同様で、エブス人がイスラエルに屈服したのはずっと後のダビデの時代でした。また山地は占領できても鉄の戦車を持つ平地の住民を追い出すことができませんでした。ヨセフの一族はべテルの町を占領しましたが追い払うべき人々が他の地に住み続け、マナセ族もエフライム族もゼブルン族もアシェル族もナフタリ族も追い払うべきカナン人を追い払うことができず、ダン族はアモリ人を追い払うことができず、その結果イスラエル人は先住民を追い出さないで隣り合わせに住むという中途半端な占領事業をしてしまいました。

それで主はボキムで「なぜこのようなことをしたのか。それでわたしも言う。“わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる”」という非常に厳しい警告を与えました。それを聞いたイスラエル人はショックを受けてみんなで大泣きして主にいけにえを献げました。涙を流したイスラエル人は一見、悔い改めたように見えますが、ボキムの涙は本当の悔い改めではありませんでした。悔い改めとは何か?それは方向転換です。主に従わない生き方をしているなら、主に従わない罪を捨てて主に従うことです。

けれども、主の契約をないがしろにしたイスラエル人は厳しい警告を受けた後も、ほとぼりが冷めるとまた同じことを繰り返して結局、異民族の偶像礼拝を受け入れてしまいました。歴史が証明しています。イスラエル人の姿は私達にとって反面教師ですが、その姿は私達の情けない現実を表しています。私達もこのイスラエル人と同じような者であり、主の教えをないがしろにし、主に従わず主を悲しませることがあります。

けれども、自分の罪が示されたとき、その罪を捨てるために戦うならば、主に従う者となります。私達はこれまでさんざん小さな罪を犯してきました。でも、罪と戦いつづけるなら主に従う者です。イエス様を信じる私達はこれまでの罪やこれからの罪を主の前で問われることはありません。なぜなら、罪の赦しはイエス様の血によってすでに与えられているからです。だから私達にとって大事なことは、自分の罪に気がついてその罪と戦いつづけることです。

“自分に罪なんかない自分は完全だ”と思うなら、その人は主に従う歩みをしていません。イスラエル人のように罪を示されながら、相変わらず同じ罪を犯しつづけるなら、その人も主に従う歩みをしていません。けれども、示された罪と取り組んで戦いつづけるなら、その人は主に従う歩みをしています。私達はイエス様の血によって罪の赦しは得ていますが、この世では死に至るまで罪と戦う必要性があるのです。普段は忘れていることが多いですが、自分のうちに罪があることを示されたとき、その罪との戦いを始めたらいいのです。また私達が罪と戦うとき、私達にはイスラエル人という反面教師とともに良い教師も与えられています。それがイエス様です。へブル12章はイエス様から目を離さないようにと教えています。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の右の座に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」      へブル12:2-3

罪はまとわりつくものですから罪との戦いは長く続きます。心が元気を失うとか疲れ果てるということが起こります。だから信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないようにするのです。イエス様は辱めをものともせずに十字架を忍びました。そして神の右の座に着座されました。イエス様は罪人たちの反抗に耐え忍ばれました。そういうイエス様から目を離さないようにしたら、私達は励ましを受けて、まつわりつく罪と戦い続けることができるのです。