マタイ9:1-8a

“あなたの罪は赦された”  内田耕治師

 

この箇所はマルコやルカの並行箇所と比べると違いがある。マルコやルカは出来事に詳しいがマタイはそれほど詳しくない。マタイは癒しの出来事よりもその出来事を通して主が言いたいことに焦点を置いて書いている。言いたいこととは罪の赦しである。

癒された中風の人に信仰は見られないが、イエス様はお構いなしに罪の赦しを宣言した。しかも何も悔い改めを求めていない。私達は明確な信仰告白がないのにどうして?と思ってしまうが、主はそんなことは問題にしていない。彼は中風の病があってもなくても神の前には罪があった。私達も同じように悪いことをしても良いことをしても神の前には罪がある。人間である以上、だれでも罪人だ。だから「あなたの罪は赦された」はすべての人に向けられている。

罪を赦す権威はイエス様にある。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知るために」は当時の状況を反映する。人々は神でありながら人となられたイエス様を人と考え、罪の赦しは神だけが出来ることと考えた。だから律法学者たちは「この人は神を冒涜している」と呟き、他の人々もそう思ったが、イエス様はそんな人々に自分の権威を認めさせようとして病気や障害は罪の結果だという当時の考え方を用いた。

イエス様はヨハネ9章で生まれつき盲目の人を神のわざが現れるために盲目なのだと言ったように病気や障害は罪の結果だという考え方はしなかった。現代もそんな考え方は迷信だして退ける。けれども当時の人々はその考え方で凝り固まっていた。だから彼らにご自分の権威を認めさせるためにイエス様は彼らの目の前で中風の人を癒して見せた。「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」人々はすぐに立ち上がる彼を見て恐れ、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。

罪を赦す権威が与えられた人とはだれか?まず人となられたイエス様であるが、イエス様だけではなくイエス様を信じる人々も含まれる。なぜなら2000年前にイエス様から始まった罪の赦しのみわざはイエス様で終わりではなくイエス様を信じる人々が福音を宣べ伝えることによって連綿と続いているからだ。それゆえ罪を赦す権威はイエス様だけでなくイエス様を信じる私達にも預けられている。では、どのようにその権威を用いて人々に罪の赦しを与えるのか?中風の人をイエス様のところに連れて来た人達が教えてくれる。

「彼らの信仰を見て」彼らはイエス様なら必ず癒してくださると信じて彼を連れて来た。私達も同じようにイエス様なら、この人やあの人の罪を必ず赦してくださると信じよう。何事も信仰から始まるからだ。中風の人は信仰はなかったが、彼らはお構いなしに連れて来た。しかも屋根に上り瓦をはずしロープで中風の人を床ごとつり降ろし何としてでもそうしようとした。私達も無理やりはできないが、何とかしてあの人やこの人をイエス様とそのみことばに向き合わせるよう出来る限りをする熱意が道を開くのである。小さな貧しい私達だが、そこまでするべき罪を赦す権威がイエス様によって委ねられている。そのことを心に留めていこう。