マタイ13:1-23

“聞いて悟る人は幸いです”  内田耕治師

 

この箇所は初めの部分から終わりの部分まで密接につながっている。種蒔きのたとえ話は絵のように思い浮かべることができるがその説き明かしはなく、「耳のある者は聞きなさい」で終わる。問題だけ言って答えを言わないようなお話だ。

弟子達はイエス様にたとえで話す理由を質問した。それは聞いて悟る弟子達と悟らない群衆を区別することだった。群衆は天の御国の奥義を知ることが許されていないとか、見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもせず、主に立ち返ることがなく、主に癒されることがないと酷評された。だから、むしろ聞いても悟らず主に立ち返り癒されることがないためにみことばを語ることになる。それはイザヤ6章の預言が実現したことである。難解だがイエス様はその預言に従って群衆にはたとえ話だけ語るのが適切と判断して冷静に見ていた。一方、「あなたがたの目は見ているから幸いです。耳は聞いているから幸い」と弟子達を大いに励まし、種蒔きのたとえ話の説き明かしを語る。

まず「道端」とはみことばを聞いても悟らない人である。では、反対にみことばを聞いて悟る人はだれか?23節「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです」それは「良い地」の人だ。聞いて悟るか悟らないかで、「良い地」であるか「道端」であるかが分かれる。では、悟るとはどういうことか?みことばを自分の問題として受け止めることだ。みことばを聞いて悟ることができれば良い地となって実を結ぶことができる。

このたとえ話はそれだけでなく、聞いたみことばが自分にとってどれだけ大事なものかも私達に問いかける。「岩地」はみことばを悟った人を表わす。しかし「根がない」とはみことばを悟ってもまだ本当に大事なものになっていないことだ。だから困難や迫害が起こると、つまずく。でも、本当に大事なものになっていたら主に従い続ける。

「茨の中」も同じだ。みことばを聞いて悟ったが、まだ本当に大事なものになっていないからこの世の思い煩いや富の誘惑がみことばをふさいでしまう。その良い例が弟子のユダだ。彼は信頼されてお金の管理を任されていた。しかし富の誘惑が働いて金入れから盗んでいて最後まで悔い改めなかった。私達にも起こり得ることだ。しかし、みことばが本当に大事なものになっていたら、この世の思い煩いや富の誘惑を乗り越えて行ける。

私達は実を結ぶ良い地を目指しながら、現実は自分が岩地や茨の中のような弱さを持つことを認めて、その弱さを克服する強さをみことばからいただく必要がある。その強さとはみことばが自分にとって本当に大事なものになっていることだ。そのために有益なみことばが1つある。「耳のある者は聞きなさい」「耳のある者」とは自分で進んで聞く気があることだ。私達はだれかの命令でみことばを読まされ聞かされるのではない。自分で進んで読んだり聞いたりする。それが私達にとって大事なことだ。それを生涯の課題としてやっていこう。