使徒21:1-14、1ペテロ1:6-7

“たとえ試練でも主のみこころのままに”  内田耕治師

 

パウロは第三回の伝道旅行を終えてエペソ教会の長老達に別れを告げて、いよいよ念願のエルサレムに行こうとしていました。そこにはパウロの命を狙うユダヤ主義者がたくさんいて危険なことがわかっていました。ツロの弟子達やカイザリヤのピリポの家に来た預言者アガボはエルサレムに行かないようにと忠告しましたが彼は聞き入れません。信仰のない人から見たら彼は忠告を聞かない頑固者ですが、信仰的に見れば彼は神のご計画に従おうとしていました。それは20:22や21:13に示された彼の心境を見ればわかります。彼は十字架の道を歩んだキリストに倣い、キリストの後に続こうとしていました。彼はエルサレムに行って迫害されることを通してローマへの道が開かれました。

パウロだけでなく、だれでもキリストを信じる者はその置かれた所で困難や試練の中でキリストに従い、キリスト信仰を貫こうとしています。ローマ帝国時代の殉教者達も江戸時代のキリシタン達も迫害の中でキリスト信仰を貫きました。今も迫害の中でキリスト信仰を貫く人々がいます。イスラム圏で新しくキリスト者となる人達は迫害の中でキリスト信仰を貫いています。イスラムが支配的なアフガニスタンで2006年キリスト教に改宗したアブドル・ラーマン氏は改宗を撤回するように圧力をかけられて拒否すると投獄され、保守派の聖職者は彼を背教罪で死刑にすることを要求しましたが、人権や信教の自由を重んじる欧米諸国がアフガン政府を非難したことでイタリヤへの亡命という形で彼の問題は決着しました。最近はイスラム圏で公には知られていなくても、ある国ではキリスト教に改宗する人が増えて、閉ざされた扉は開かれつつあります。けれどもイスラムが支配的な地域ですから家族やコミュニティーから迫害されることがよくあります。だから試練の中でキリスト信仰を貫いています。目立った迫害がない日本でも忙しさの中で集会を守ったり、無関心な人々や異教的な人々に伝道したり、未信者の家族の中で孤立した信仰生活をしたり、それなりの試練の中でキリスト信仰を貫こうとしています。

ところで試練の中でキリスト信仰を貫こうとする私達にはある希望があります。それはキリストの再臨のとき実現します。それはどんな希望なのか?今キリストのゆえに遭っている試練が、主が再び来られた時、そのまま称賛、光栄、栄誉に変わることです。

「――いまは、しばらくの間、試練の中で悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエスキリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」1ペテロ1:6-7

試練の中で弱気になったとき、この希望を思い出し、主の再臨を待ち望んだらいいのです。パウロは主の再臨にこの希望を抱き、キリストに従いました。昔の殉教者達も主の再臨にこの希望を抱いて命を捨ててキリスト信仰を貫きました。今イスラム圏に起こされる新しいキリスト者達も日本にいる私達も主の再臨にこの希望を抱き、キリスト信仰を貫こうとしています。試練がやがて称賛、光栄、栄誉に変わるという希望があることを思い出そう。