ローマ1:16-17

「宗教改革500周年・恵みとして与えられる神の義」  内田耕治師

今週10月31日は宗教改革500周年です。宗教改革は聖書から離れて腐敗していた16世紀のカトリック教会に“聖書に帰れ”と叫んだ運動でそこから今日のプロテスタントの諸教会が生まれました。聖書から離れたとは、行いではなくただ信仰によって救われることが聖書の原則なのに、当時のカトリック教会はその原則から外れて行いによる救いを教えていたことです。彼らは天国に行く前段階の煉獄という聖書にないことや贖宥状(免罪符)を買えば煉獄に積み残した罪は償われて天国に行けると教えていました。それに反対してマルチン・ルターは1517年10月31日にヴィテンべルグの城教会の扉に“95か条の提題”を張り付け、それがキッカケで宗教改革が始まりました。彼は人は神の恵みのゆえに行いではなく信仰によって救われるという聖書の真理を主張しました。

ルターはその真理を主の導きの中で悟りました。修道院でルターは戒律を厳格に守り、誘惑と戦いながら断食や祈祷などの訓練を積極的に行いました。けれども修行を積めば積むほど自分のうちにある罪にますます気づき、厳しい裁判官のような神観を持っていた彼は“自分は天国に行けないのではないか”と魂の悩みを抱えたまま奉仕をしていました。けれども、そんなルターはローマ1:17のみことばによって目が開かれました。彼は初め「神の義」を罪ある人間を神がさばく義だと思っていました。けれども「神の義」は「良い知らせである福音」と結びついています。さらにその後には「義人は信仰によって生きる」とも書いてあります。長年の格闘の末やっとのことで彼はその答えを見つけました。「神の義」とは罪人をさばいて罰を与える義ではなくて罪人を赦す恵みであり、また「義人は信仰によって生きる」とあるように「神の義」とは行いではなくて、ただキリスト信仰によって恵みとして与えられる義だということでした。彼はカトリック教会が忘れていた聖書の信仰義認の教えを再発見したのです。宗教改革とは聖書が教える初代教会の信仰に立ち返る運動なのです。

ところで私達も初めの信仰を忘れて行いを重視して律法的になることがありますから私達にも日々宗教改革が必要です。私達が行いを重視して律法的になる現実をルカ18章の宮で祈るパリサイ人と取税人のたとえ話がよく表しています。パリサイ人は取税人と比較して自分が優れていることを主に感謝しました。一方取税人はただ主を見上げてへりくだりました。

私達は、ともすると取税人の信仰で始めてもそのうちに行いを重視し、比較して自分を誇るパリサイ人の信仰になりやすいのです。その弱さがあるからこそ聖書は「(神の義は)信仰に始まり信仰に進ませる」と教えています。私達は信仰で始まり、最後まで信仰で行くことで完成するのです。信仰で始まり行いで完成することはありません。さらにみことばに基づき、さらに強くなったり、さらに愛が増したりという成長はありますが信仰そのものは変わりません。家族は平凡でも最も大切ですが、家族をつまらなく思い、外に自分の欲望を満たす刺激的ものを求めだすと家族が上手く行かなくなります。同じように平凡な信仰が物足りなくて人々に認められる行いを求めだすと信仰が変になります。平凡でもキリスト信仰を持ち続け、主を見上げ主とともに歩むことで天において私達の信仰は完成するのです。