使徒24:1-27

“神に責められることのない良心”   内田耕治師

16節「――私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、」パウロは責められることのない歩みを心がけました。まず人の前で責められることがないように努めました。カイザリヤでは総督府に監禁されていましたが、ユダヤ人の大祭司アナ二ヤはカイザリヤまで来て総督フェリクスにパウロを執拗に訴えました。パウロは疫病のような人間で世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしているとか、ナザレ人の一派の首謀者であるとか、宮を汚そうとしたなどとテルティロは語り、その場にいたユダヤ人達も“その通りだ”と言ってパウロを告訴しました。けれども、その訴えは根も葉もないことでしたからパウロはキチンと弁明して自分に責められる所が何もないことを明らかにしました。

次に、パウロは人の前だけでなく神の前にも責められることがないようにしました。パウロは人がどう思おうと、また人がどう言おうと神の前に適切か適切でないかという視点で対応したのです。対応した相手は、総督のフェリクスとその妻ドルシラでした。総督フェリクスはユダヤ人みたいにパウロを亡き者にしようとする悪意はないし、パウロに法律で裁かれるような罪がないことはわかっていました。またユダヤ人の妻ドルシラとともにキリストの福音をかなり知っており、さらに知りたいという興味も持っていました。その興味は単なる知識欲以上で、魂の救いを求める思いがありました。この2人については聖書外の資料がありますが、それによるとフェリクスはドルシラを前の夫と離婚させて自分が結婚し、3番目の妻にしましたが、そのような醜聞関係が彼らの結婚生活に暗い影を落としていたことが十分に考えられます。だからキリストの福音をさらに知りたいという興味には、真面目な求道心があったと考えられます。けれども、それとともにフェリクスは一癖も二癖もある厄介な人物でした。たとえば、彼は、罪がないパウロをすぐにでも釈放できたのにユダヤ人に恩を売るためにパウロを牢につないだままにしていました。またパウロからお金をもらいたいという下心があって“自分にはお前を釈放する権威があるから釈放してほしければお金をだすように”と要求していました。普通そういう厄介な人物とかかわるとき、下手をするとしばしば惑わされ問題ある対応をしてしまうことがありますが、パウロは惑わされることなく福音を伝える者として適切に対応をすることができました。25節に「パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じたのでフェリクスは恐ろしくなり“今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする”と言った」とあります。パウロはおそらく創造主である神から始めて福音の全体像を語ったと思いますが、その中で特に世の終わりのさばきを聞いたとき、フェリクスは自分のうちにある不純なものが示されて恐れました。神に責められることのない対応とは、このように恐れさせることができたことです。

もしパウロが早く釈放されることを願ってフェリクスの要求に応じてお金を払いでもしたら、それはフェリクスの不正に加担したことになります。もしパウロが自分を釈放する権威を持つフェリクスを恐れて忖度し、世の終わりのさばきを抜いた耳障りのいい福音を語ったならば、それは大切なものが欠けた宣教です。世の終わりのさばきを恐れることに留まり、キリストの血による罪の赦しにまで行かなかったのは残念なことです。けれども不純なものをそのままにした偽りの悔い改めを容認したら、フェリクスを本当の意味で救いに導くことはできません。だから、彼を恐れさせる来るべきさばきまで、しっかり語れたことが神に責められることがない対応でした。

ところで、私達もパウロのように神に責められることのない対応をするか、それとも人々のご機嫌取りのような対応をするか、迷いながら神に責められることがない対応を選び取る歩みをすることがあります。人々は福音の全体像ではなく、福音の美味しい所ばかりを聞きたがるものです。テモテ第二4章に「人々は健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みに従って自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になる」と書いてある通りです。けれども、その傾向にまったく調子を合わせて福音の美味しい所だけを語るとしたら、その在り方は人々のご機嫌取りにはなっても、本当の意味で人々を悔い改めに導くことはできません。かと言って、さばきばかりを語ればいいということではありませんが、福音の美味しい所だけでなく、さばきも含めて福音の全体像を語ることが必要です。また聖書には「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、――」の後に「責め、戒め、また勧めなさい」と書いてあります。“責める”とか“戒める”という聞く者があまり歓迎しないようなことも語るように勧めています。ようするに漫勉なく全体像を語るべきなのです。それが神に責められることのない奉仕です。そのような奉仕をするために大事なことは人ではなく神を恐れる信仰です。箴言29章に「人を恐れると罠にかかる。―――」とあるように、私達はともすると人を恐れて罠にかかり、神をがっかりさせ、神に責められることをしてしまいます。だから、恐れるべきは主なる神なのです。箴言1章に「主を恐れることは知識の初めである」とあるように、それは人ではなく主なる神を恐れる心です。

主を恐れる心を持つならば、主のみこころに適うようになろうとして神に責められることのない良心を保とうとします。その際に「保つ」ということが大切です。人生は長い歩みです。1回や2回神に責められることがないようなことができても、その後も神の前に問われることはどんどん続きます。死に至るまで続きます。だから1回や2回上手く出来て喜ぶのではなくて、責められることのない良心を保つことが大切です。「――良心を保つように、最善を尽くしています」というパウロのことばを心に留めていきましょう。