箴言16:1-4

内田耕治師

私達は何かを決めるとき、くじ引きで決めることがあります。人間は自分にかかわるすべてのことの責任を取ることはできず自分の代わりに責任を取ってくれる存在を必要とするのです。だから、くじを引くのです。そのときに“どれにしようかな神様の言う通り”と言うことがあります。くじを引くとは神様に責任を取る重荷をゆだねることです。聖書にも同じようなみことばがあります。箴言16:33「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る」すべてのことを決める主が責任を取って下さる。だから主にゆだねよなのです。箴言16:3「あなたのしようとすることを主にゆだねなさい。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」新しい訳では「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」聖書は主にゆだねることを勧めています。

ところで一般的な“神様の言う通り”と聖書の“主にゆだねる”には違いがあります。一般的な“神様の言う通り”はその神様がどんなお方か考えません。神様はどちらを選ぶか迷ったときに頼ったというだけの存在です。多くの人達はそのようなあやふやな存在に頼って自分の決定をゆだね、責任を負っていただこうとします。しかし聖書の“主にゆだねる”では、私達がゆだねる主はあやふやな存在ではなく、天地万物を造り、私達を生かし、私達の救いのために御子を遣わし、私達の人生を支配し導くお方です。私達は主の御手の内にあります。だから「あなたのすることを主にゆだねなさい」と勧めているのです。

そして主にゆだねたら、どうなるか?「あなたの計画は揺るがない」、「あなたの計画は堅く立つ」と教えています。私達の計画がゆるがない、堅く立つとはどんなことか?そのことが16章の1節、2節、そして4節に書いてあります。まず1節に「人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る。」とあります。私達は初め自分が立てた計画は上手く行くと思っています。けれども実際にやり出すと、上手く行かず計画変更を迫られたり計画自体が潰れたりします。どうしてか?それらは私達の計画であり、主のご計画からズレていること、全然違うことがあるからです。私達はよく自分の力不足だった協力者がいなかった状況が整わなかった邪魔が入ったなど上手く行かない具体的な理由を考えます。確かにそういう理由はありますがそれらも含めた上で主のご計画とは異なる私達の計画だったから思い通りには進まず、行き詰まって最終的に実を結ぶことができないのです。箴言19:21「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」を読めば明らかです。

けれども思い通りに進まないことによる恵みがあります。それは自分の計画の偏りや間違いを示され、正され、へりくだって主のみこころは何だろうかと求めるうちに、主のご計画が示され、さらにそれを行うように状況が整えられ、気がついてみたら、それを行い始めているということです。「あなたの計画はゆるぎない」とか「堅く立つ」とは、初めに立てた自分の計画がゆるぎないのではなく、主の導きを通して示され行うようになった主のご計画がゆるぎないのです。そうなるために私達の心は主の前にへりくだるように導かれます。「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値打ちを計られる」私達の心にはしばしば不純なものが混ざるのにそれに気づかず“神にためだ人のためだ”と言って自分の行いがことごとく純粋だと思っています。そして自分の計画を強引に推し進めようとします。そういうことだから私達の計画は上手く行かないのです。でも、挫折を通して主は私達の心の本当の姿を明らかにし、さらに私達がそれを見るように導きます。それを見たとき、私達は恥ずかしく思います。そのとき「主は人のたましいの値打ちを計られる」というみことばがよくわかります。たとえば、かつては自分みたいな立派な人間は他にはいないと思っていたのが、挫折し、どん底に突き落とされることによって実は自分の虚栄のためにする偽善者だと示されたり、偏見の持ち主であることが示されたりで“あなたのたましいの値打ちはこの程度なんですよ”と計られて、痛い目を見ながら主の前にへりくだらされます。でも、それは必要なことです。痛い目を見て主の前にへりくだることによって私達は整えられて、私達の計画はゆるぎないものになるからです。

そして痛い目を見て主の前にへりくだるとき主が与えた目的に目が開かれるようになります。4節「主はすべてのものをご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた」とあります。私達は意外と脆いもので挫折し、どん底に突き落とされることで“自分は何のために生きているのか”と人生の目的を見失い“こんな自分は生きていても意味がない”と思うことがあります。でも、聖書はそんな私達に「主はすべてのものをご自分の目的のために造られた」と語りかけます。平穏無事な時にはこのみことばは私達の耳を通り過ぎるだけかもしれません。しかし、どん底に突き落とされたときこの、みことばは私達の心に響きます。つまり、目的を見失った私達に主は目的を与え、生きる意味を見失った私達に主は生きる意味を与えてくれるのです。

また、主は悪に味方するお方ではありませんが、主は悪者にさえも目的を与えています。それは「わざわいの日のために造られた」とあるように、わざわいの日に悪者がさばかれて主の栄光が表わされるということですが、主は悪者にさえ目的を与えるとすれば、私達に与えないことはありません。私達にはなおさら良い目的を与え、良くしてくれるはずです。悪者はさばかれることで主の栄光を表わしますが、私達は主のご計画を成し遂げることで主の栄光を表わすのです。だから、主は目的をもって私達をそれぞれの場所に置き、私達に期待しているのです。そのことに気がつくなら、やる気や希望が出てきて、私達はますます与えられた計画を揺るぎないものにすることができるのです。