使徒24:27-25:12
『神はすべての事を益としてくださる』 内田耕治師
ローマ8:28「神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益として下さる」新訳「すべてのことが共に働いて益となる」
パウロはその良い例です。パウロの人生には“何でこんなことが”ということがよく起こりましたが、それは“こんなことになったおかげで主のご計画を成し遂げることができた”と言えるようになるためでした。ローマ宣教の道が開かれたことはまさにそういうことでした。
パウロは初めローマに行くつもりはなくて、分裂しそうな初代教会の一致を保つために強い使命をもってエルサレムに行きました。エルサレムに着くと、教会のヤコブや長老達の勧めに従って彼は神殿で清めを受けました。ところが、アジアから来たユダヤ人が彼が神殿にいる所を見ると、“パウロがギリシャ人を連れ込んで神殿を汚している”というデマを言いふらして群衆を煽り町中が大騒ぎになり、パウロは殺されかけました。でも、危ないところで彼はローマ軍に保護されました。またパウロは集まっていた群衆に自分のことを語って弁明しようとしました。けれども群衆は理解せず「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言ったので千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れました。千人隊長はパウロがどうしてそんなにユダヤ人に憎まれるのか調べるために翌日、パウロをユダヤ人の最高法院つまり議会に連れて行きました。そこではパウロが自分はパリサイ人で、死者の復活を信じていると言うと、同じく死者の復活を信じるパリサイ人とそれを信じないサドカイ人の論争になり、会場は騒然となりました。その騒ぎに乗じてパウロを殺そうとする者が現われるかもしれないので、千人隊長は彼を再び兵営に連れて行きました。さらに40人以上のユダヤ人が徒党を組み、パウロを殺そうと陰謀を企てていましたが、奇跡的にパウロの姉妹の息子がそれを耳にして百人隊長に伝え、百人隊長が千人隊長に伝えたので、千人隊長はたくさんの兵士を護衛につけてパウロをカイサリヤに送って難を逃れました。
カイザリヤにいても、ユダヤ人の執拗な追及は続きました。大祭司アナ二ヤと長老達とテルトロがやってきて総督フェリクスにパウロを告訴しました。ローマ人であるフェリクスはユダヤ人達の訴えは彼らの宗教的な問題であってローマの法律から見たら何も罪にならないことだとわかっていました。けれどもフェリクスはユダヤ人達の機嫌を取るという政治的な思惑のためにパウロを監禁したままにしていました。パウロはせっかく強い使命をもってエルサレムに来たのに、“何でこんなことが”という状況に陥ってしまいました。けれども“何でこんなことが”からローマへの道が開かれて行きました。ローマ宣教の幻は、彼がエルサレムに来る前に出したローマ人への手紙に書きましたが、具体的なプランはなく行くつもりはありませんでした。けれども、23章でエルサレムの最高法院に立たされた日の夜、主がパウロに「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」というみ告げを与えました。
パウロはこの辺りからローマ宣教が主のみこころだと考えるようになりました。するとローマに行く可能性が見えてきました。ローマ人であるパウロは、訴えられたならローマ法に従ってさばかれます。その場合、カイサルに上訴することができます。そしてカイザルはどこにいるか?もちろんローマですから、上訴することでローマに行くことができます。でも、いくらローマ法があっても訴えられなければ上訴することはできません。ユダヤ人がパウロを告訴しなければ、カイサルに上訴はできません。だからカイザリヤにいても執拗に訴えられていることが、かえってローマへの道を開くことになったのです。
また総督がフェリクスからフェストゥスに代わったことも大いに益になりました。フェストゥスはフェリクスと違って政治的思惑のためにユダヤ人の機嫌を取るようなことはしないで、法律通りにする率直な人でした。フェストゥスはユダヤに着任して、まずエルサレムを表敬訪問しました。すると祭司長達やユダヤ人の有力者達はすぐにパウロの件を持ち出して、エルサレムに呼び寄せてほしいと言い出しました。それは、パウロを待ち伏せして殺すためでした。けれどもフェストゥスは、“あなたがたがカイザリヤに来て彼を訴えなさい”と言って彼らの要求を突っぱねました。
そしてカイザリヤで行われた裁判でユダヤ人達は、パウロに対して次々に多くの重い罪状を申し立てますが、立証することができません。一方パウロは何も罪を犯していないと弁明します。フェストゥスはユダヤ人達がいる手前、パウロに「エルサレムで裁判を受けることを望むか」と尋ねますが、あくまでローマ法に則って事を行い、ユダヤ人の肩を持つつもりはありませんでした。ですからパウロが「――-私はカイサルに上訴します」と言うと、フェストゥスは最後に「おまえはカイサルに上訴したのだから、カイサルのもとに行くことになる」と宣言しました。ユダヤ人の意に沿うようにはしないでローマ法の規定通りにしました。
この宣言によってローマへの道は開かれました。“何でこんなことが”ということは、ローマ法とフェストゥスの存在によって神のご計画のために用いられたのです。エルサレムに来て以来、パウロは何もすることができず翻弄されるだけでしたが、ローマ宣教という主のご計画が進んでいることに気づいたとき、この箇所にパウロが“主をほめたたえた”とは書いてありませんが、おそらく彼は“何でこんなことが”ということを益にしてローマへの道を開いて下さった主をほめたたえたに違いありません。
ところで、私達も“何でこんなことが”ということが長い人生の中で少なからず起こります。そんな時、ただ呟き、嘆くだけで過ごしたら詰まらない人生です。その背後にある“隠された主のご計画”を思う心を持つのです。そうすれば希望が持てます。希望を持てたら、やる気が出てきます。時が来たら“隠された主のご計画”が明らかにされ、“こんなことになったからこそ道が開けた。すべての事を益として下さる主は素晴らしい”と言って主をほめたたえるようになります。すべての事を益として下さる主に期待していきましょう。