創世記6:5-22、へブル11:7
「ノアの信仰」 内田耕治師
信仰とは何か?信仰とは救いをもたらすものですが、救いとは“私達はそのままでは救われない、滅びてしまう”ということが前提になっています。滅びがなければ救いはわかりません。それで聖書は私達の前には世の終わりのさばきがあることを教えています。けれども神は滅びてしまう人間を哀れんで、イエスキリストを通して私達に救いを与えようとしています。ですから滅びからの救いが救いの本質です。
創世記のノアの箇所は、このような救いの本質を非常にクリアに教えています。きよく正しい神は、人の悪が増大した地上の様子を見て非常に心を痛めて、そのまま放置することができないと思いました。神は非常に苦しみましたが、ついに人も動物もすべて造ったものを大洪水によって滅ぼすと宣言しました。けれども、神は神とともに歩むノアに箱舟を造らせて、その大洪水から救われなさいと命じました。その時、それを聞いたノアは、洪水が起こる気配はまるでなかったですが、神のことばをその通りに信じて箱舟を造り始めました。へブル11章はそのことを「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造った」と書いています。
私達もまだ見ていない世の終わりのさばきから、イエスキリストを通して救われて天国に入れることを信じて日々信仰生活を営んでいます。私達はノアやその息子達みたいに山から木を切って集めて製材し、船を組み立てることはしませんが、信仰によって日々祈り、みことばを読み、礼拝を守り、さらに生活のために家族などの身近な人達のために働いています。ごくごく平凡な営みですが、死に至るまで生涯、その営みを続けたら、それは非常に大きなものになります。たとえて言うと、私達も信仰によってノアみたいに箱舟を造るような大きな仕事を根気良く続けているようなものです。
へブル11:7に示されたノアの信仰から私達は凄い恵みを知ることができます。その恵みとは「信仰による義を受け継ぐ」ことです。前の訳では「信仰による義を相続する」です。ノアは家族だけで大きな箱舟を長い時間と多くの労力を費やして造り上げました。非常によく働きました。そしてその箱舟で家族だけでなくあらゆる種類のつがいの動物を洪水から救いました。その業績は凄いことです。また「その信仰によって世を罪ありとし」前の訳では「その箱舟によって世の罪を定め」ですが、箱舟を造りながら、神から離れて罪を罪と思わない、悪を悪と思わない人達に洪水による神のさばきを告げて、人々の罪を示していました。罪を示すとは人々を悔い改めさせるためですから、ノアはいわば伝道者の働きをしていました。人々は箱舟を造るノアをバカにし嘲り、彼のメッセージを無視し続けましたが、ノアは挫けないで箱舟を造りながら神のさばきと悔い改めを宣べ伝えつづけました。残念ながら彼の宣教を通して悔い改めたのは家族だけで、多くの人々は聞いても悔い改めなかったですが、伝道者としたら素晴らしい働きをしていました。けれども、聖書はノアのそのような偉大な業績や働きを一言もほめたたえないで、ただ「信仰による義を受け継いだ」と書いています。聖書が注目するのは、ノアの業績や働きではなく信仰なのです。聖書はノアの業績や働きよりも信仰を強調しています。
ノアは初め神から洪水が起こるという警告のみことばを聞いたとき、それをそのまま信じて箱舟を造り出しました。聖書に詳しいことは書いてないですが、途中で疲れて作業が滞ったり、嘲られてやる気が失せたり、洪水の気配が全くなくて神のことばを疑ったり、彼は真面目でも息子達が文句を言って父に逆らったり、―――いろいろあったと考えられます。でも、いろいろあったけれども最後まで信じていたから、箱舟を完成することができました。そして神はその信仰を義と認めたから、ノアは信仰による義を受け継いだと聖書は書いています。すなわち「信仰による義」とは、いろいろあったけれども、最初、神のことばを聞いて持った信仰を何とか最後まで保つことができたことなのです。へブル3:14に「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私達はキリストにあずかる者となるのです」とあります。ノアはいろいろあったけれども最初の確信を終わりまでしっかり保つことができました。だから、信仰による義を受け継ぐことができました。神は業績ではなく、最後までノアの信仰を見ていたのです。
神はノアと同じように、最後まで私達の信仰を見ています。だから、たとえいろいろあって人生は順調に行かなくても、初めにイエスキリストに出会って持った信仰を、最後まで保つならば、私達もその信仰が義と認められ、キリストにあずかることができます。私達はたとえイエス様を信じたとしても、天国にたどり着くまでにはいろんなことがあります。長い人生の歩みの中で、必ずしも模範的な信仰者の歩みができるわけではありません。けれども、いろんなことがあったとしても、最後まで信じ続けたら、信仰による義を受け継ぐことができます。たとえ信仰がなくなったとしても最後に信仰がよみがえったら信仰による義を受け継ぐことができます。この世では、長い人生でたとえば、あの人は散々、迷惑をかけてきたとか、あの人は失敗を引きずっているとか、あの人には前科があるとか、―――反対に良い働きをした人や凄い業績を上げた人やたくさん稼いだ人はいつまでも敬われるとか―――この世ではどういう歩みをしてきたかが問われます。この世では行いによる義がもてはやされるのです。けれども、神は行いや業績ではなく、私達の信仰を見ています。そのことは、長い人生で自慢できることよりも恥ずかしいことのほうが多い私達には凄い恵みです。この世では、よく故郷に錦を飾ると言われます。努力して業績を上げ偉くなって英雄のように故郷に訪れることが人々の夢なのです。しかし、天国は全く違います。業績を上げても上げなくても関係ありません。良い働きが出来ても出来なくても関係ありません。いっぱい稼げてもあまり稼げなくても関係ありません。大事なものは信仰だけです。
長い人生でいろんなことがあり、ボロボロになって疲れ切って天国の門に来た時、ただイエス様を信じた初めの信仰があれば、それだけで神は“お帰りなさい”と暖かく迎えてくれ、永遠の祝福を与えて下さるのです。これこそ恵みの福音です。ノアは箱舟を造りながら神のさばきを宣べ伝えて、世に罪を示しました。私達はさばきではなくこの恵みの福音を宣べ伝えます。イエスキリストは天国への道です。イエスキリストを信じたら、だれでも天国に行くことができるのです。