創世記12:1-3、へブル11:8-16

「見よ。アブラハムの信仰を」   内田耕治師

 

信仰とは何か?見ないで信じることです。約束という言葉がそれを上手く表しています。約束とは、今はないですが将来必ずもらえるようになることです。イエス様を信じるとはそういうことです。私達はまだ見ていない天国の約束をイエス様を通して信じ、一歩踏み出して信仰生活をしています。

イエス様がまだ来ていない時代、アブラハムは私達と同じようにまだ見ていない約束を信じて一歩前に踏み出した人でした。アブラハムは1つの部族の族長でしたが、当時、存在した大きな国々の王達に比べたら非常に小さな存在でした。創世記12章後半の彼がエジプトに行った時のことを見ればわかるように大きな国の王や人々をペコペコして恐れるような者でした。けれども、神はそのようなアブラハムを選んで小さな1部族だったアブラハムは大いなる国民になり、さらに地のすべての部族(民族)がアブラハムによって祝福されるという当時のアブラハムにとっては、想像もできない物凄い祝福の約束を与えました。その時、まだそれらしきものは何もなかったですが、彼はその約束を信じて約束の地に向かいました。へブル11章はそのことを「信仰によってアブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにとの召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」と記しています。

次に信仰とは信じ続けることです。神の約束を信じることから始まり、死に至るまで信じ続けるのが信仰です。アブラハムにとって祝福とは、子供がいなかった彼にとって自分の部族を受け継ぐ息子が与えられることでした。彼はそのことを信じて主のみ声に従いました。それは彼が75才の時でした。だから彼が100才、妻のサラが90才でイサクが与えられるまで実に25年という期間、待ち続けました。その間にはいろんなことがありました。けれども、アブラハムは約束を信じ続け、約束の子イサクを与えられました。へブル11:11は「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」と書いてある通りです。

また相続財産である約束の地は、さらに凄いことにアブラハムが生きているうちには受け取ることができず、ただ信じ続けるだけでした。妻のサラが召されたとき、例外的に彼女を葬る墓にする小さな土地だけは手に入れることができましたが、それ以外にはアリが立つほどの土地も手に入れることができず、ずっと天幕生活を続けました。イサクやヤコブも同じような歩みをしました。

そして信仰とは天国を信じることです。相続地を受け取れと言うのに、いつまでも経っても受け取れず、ただ信じるだけ。普通なら見込みがないなら“この辺で見切りをつけよう”となりますが、アブラハムは信じ続けて旅人であり寄留者であるという立場を積極的に受け入れることができました。どうしてか?それは彼らがこの世の土地ではなく天国を待ち望んでいたからです。アブラハムは約束の地に寄留者として長く生活するうちに、この世の土地ではなく天国を待ち望むようになっていたのです。へブル11:13-14「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした。はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人達は、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。―――――」

この故郷とは、この世の故郷ではなく天の故郷です。へブル11:15-16「もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし、実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷すなわち天の故郷でした。ですから神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神は彼らのために都を用意されたのです。」天の故郷とはどんな所か?神が建設された都がある所です。要するにそれは天国です。アブラハムは天国を待ち望んでいたからこそ、自分のものにならない約束の地に旅人として寄留者として住み続けることができました。“自分達には天国というもっと良いものがある。必ずそこに行くことができる。だから、この地上では旅人であり寄留者であっても構わない。喜んで旅人として人生を歩みます、進んで寄留者として生活します”という信仰を持っていたのです。

私達もアブラハムと同じような信仰を持ってこの地上で生活しています。私達は信仰によって天の国籍があり、私達はいつ召されても天国は私達を“お帰りなさい”と暖かく迎えてくれると信じています。だから、この世ではどこに住もうと、たとえ先祖代々住んでいようと私達は旅人であり寄留者という立場にあります。私達の本当の故郷は天国だけなのです。天国を本当の故郷と信じる信仰を私達が持つならば、たとえ、この世では困難や試練が多くて落胆することが多くても決定的に失望することはありません。たとえばアブラハムは一大決心をして、約束の地に出かけて生涯かけて手に入れた土地は、小さなお墓の土地だけでした。もしアブラハムが“この世の祝福しか求めない”という生き方をしたら、彼は惨めな男です。けれども彼には天の故郷があったからそうは思わないで、約束の地はまだお預けでも主を信じて喜んで寄留者の歩みをすることができました。

私達も同じです。もし“この世の祝福しか求めない”という生き方ならば、私達の欲望は際限がないですから、得られないものばかりで失望の人生になることでしょう。けれども、私達にはキリスト信仰があります。主は決して私達を見捨てることはないし、必ずキリストを通して天国に導いて下さり、天で豊かな祝福を与えて下さると信じています。そう信じているならば、この世でまだ得られないものがあっても、アブラハムのようにそれはまだお預けにして、みこころなら与えられるだろうと思うことができます。また挫折したとき主は試練に遭わせても自分を見捨てることはないと思うことができます。また、たとえ死ぬようなことになっても天国で神が必ず迎えて下さると思うことができます。なぜなら私達の本当の故郷は天国だからです。