創世記3:1-15

「救い主が来る最初の預言」   内田耕治師

人類最初の人間は、女がサタンに誘惑されて神の命令に背いて食べてはならないものを食べたことによって罪を犯しました。創世記3章の前半には彼女がサタンに誘惑される様子が詳しく書かれています。

この罪のためにその後の人類はすべて、神の前に罪ある者となりました。罪のゆえに、私達は神との関係が生まれながらに損なわれた状態にあり、永遠のいのちを失い、滅びゆく者となっています。また妻が最初に過ちを犯して夫を巻き込みましたから、夫アダムの心に“あんなことをして俺を巻き込みやがって”と妻に対する敵意が生まれたと考えられます。また妻のほうでは自分が事の始まりですから辛く当たられても何も文句を言うことができません。だから、その過ちが16節にあるようにまず夫による支配をもたらし、さらにそれがその後の時代も続いて女性の地位を社会の中で低いものにしました。男尊女卑や男女差別の問題は最初の女が過ちを犯したことに起源があるのです。

初めに事を起こした関係上、妻は小さくならなければなりませんが、夫が執拗に辛く当たれば心の中には敵意が生まれます。心の中に敵意を持ちながら一緒に暮らすことは2人を難しい関係にしてしまいます。だから神はそうなることを少しでも防ぐために15節で「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫との間に置く」と語りました。憎むべきはサタンなのです。彼女でも夫でもありません。主は彼らの敵意の向け所をサタンにさせようとしたのです。

また彼女の過ちのために、彼らはその後エデンの園から追放され、苦しい生活を強いられるようになり、彼女は非常に不名誉な汚点を残してしまいました。また私達から見たら、その過ちのためにその後の全人類に罪という大きな負債を残したのですから、これほど大きく不名誉な汚点は他にありません。けれども主は彼女の子孫がサタンに勝利し、その汚点を返上する約束をこの女に与えました。それが15節なのです。

「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」とあります。「彼」という言葉が急に出てきて何なのか?よくわからないみことばですが、聖書全体から見て「彼」とは神の御子イエスキリストを表します。そして「おまえ」とは女を唆したサタンを表します。「彼はおまえの頭を打つ」とは何か?あの時、サタンは蛇の姿として現れていました。蛇は頭を踏んづけてしまえば身動きが取れません。そうなるために神は14節で「おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる」とあるように蛇を、前もって地を這うものにしました。それでキリストは容易にサタンの頭を踏んづけて身動きが取れないようにします。サタンもかかとに噛みついてキリストに抵抗しますが、頭を押さえつけられたら、どうにもなりません。だからサタンは屈服し、キリストが勝利を収めます。キリストの勝利とは、キリストの十字架による救いです。女が罪を犯してその後の人類は神の前に罪ある者となり、神から離れてしまいました。けれども、私達はキリストの十字架によってその罪が赦されて神に立ち返ることができるようになったのです。サタンに勝利するキリストは、罪を犯したエバの子孫として2000年前この世に遣わされました。

神は敵意を「サタンと女の間」に置いただけでなく「サタンの子孫と女の子孫の間」にも置きました。「サタンの子孫」とはだれのことか?サタンを頭にして神に反逆する悪霊どもを表します。福音書にはイエスキリストが悪霊どもと敵対し、彼らを追放するところがよく出てきます。サタンの子孫とはサタンを頭にする悪霊どもなのです。

また「女の子孫」とは、創世記12章でアブラハムに与えられた「地のすべての部族はあなたによって祝福される」という約束と同じようなものです。聖書にはある個人とその子孫を一纏めにして同一視するような言い方があります。だから、この「あなた」はアブラハム自身だけでなく「アブラハムの子孫」を表します。また「アブラハムの子孫」とは大勢いる「イスラエル人の中の1人の人」を表します。

その1人がイエスキリストです。ガラテヤ3:16をご覧ください。同じように「女の子孫」は1人のイエスキリストなのです。

また「女の子孫」の「女」ということにも意味があります。聖書に出て来るイスラエル人の系図は普通、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの子、―――ダビデの子というふうに男性の名前が出てきます。実際に子を産むのは女性なのに男性の名前を表に出して、だれの子、だれの子と、男性の名前を並べながら系図を書いて行きます。女性の名前を出すことは一部の例外を除いてありません。

けれども、ここでは例外的に「女の子孫」というふうに「女」を強調します。どうしてか?

それはエバの他にもう1人の女を含んでいるからです。それは処女マリヤです。大勢のエバの子孫の中にマリヤという1人の女がいました。そのマリヤは、男性とは関係なしに聖霊によって身ごもってイエス様を産みました。イエス様は女性だけによって生まれた子、女の子孫なのです。エバは、サタンに唆されて神の命令に背き罪を犯して、アダムとともにエデンの園から追放され、さらに全人類を罪ある者とするという非常に不名誉な汚点を残しました。けれども神はそんなエバを見捨てませんでした。彼女の子孫としてやがてマリヤが生まれ、マリヤを通して女の子孫であるイエスキリストが生まれ、イエスキリストは人類の罪の身代わりとして十字架にかかることで、エバを陥れたサタンの頭を踏みつけてサタンに勝利しました。ですから彼女はその子孫によって不名誉な汚点を返上し、人類に大きな祝福を与えることができたのです。

長い人生の中で汚点は多かれ少なかれあるものです。罪ある私達はまったく汚点がないという歩みはできないことです。けれども、汚点があっても神は決して見捨てることはなく、神のご計画のために用いて下さるのです。またその際に長い目でものを見ることが大切です。自分の人生で大きく用いられるだけでなく、子や孫やひ孫、さらにその後など自分の子孫が大きく用いられることがあります。現代人は自分1人の人生を考えがちですが、聖書は自分だけではなく、子孫も含めた長い命の繋がりの中で神に用いられて祝福を受けることを教えているのです。

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからです。」出エジプト記20:6