第二サムエル18章
「若者は、無事か?」 内田耕治師
サムエル記第二にはダビデのスキャンダルがたくさん書いてあります。彼が最初の妻から生まれた長子アムノンを溺愛したため、アムノンは自制が効かない者になり、性的なダラしなさをダビデから受け継いだため、腹違いの妹タマルを強姦し捨てるという酷いことをしました。そのためにタマルの実の兄アブシャロムはアムノンを憎み、家族の食事会で油断しているときにアムノンを殺し、母の実家に逃亡して3年間もそこにいました。アブシャロムは悪いことをしましたが、彼にも“アムノンはタマルを強姦して捨てたのに、お父さんは何もしてくれなかった”という言い分がありました。
けれども、3年間ダビデはアブシャロムと1度も会おうとせず連絡も取らす、ただアムノンの死を嘆き悲しみ、アブシャロムに対して敵意を持つだけでした。その背後には、アムノンを溺愛しアブシャロムを疎んじたダビデの片寄った子育てがありました。そんなダビデの状態を見るに見かねて家来のヨアブがテコアの女を用いて両者の間を取り持ち、再会する機会を作りました。それでアブシャロムはしぶしぶエルサレムに戻ってきました。けれども、ダビデは2年間もアブシャロムに会うことを拒否していました。重い腰を上げて戻ってきたのに、いつまでも父ダビデは会ってくれないので業を煮やしたアブシャロムはヨアブに取り次いでもらおうとしました。しかし、彼もなかなか動いてくれません。
ようやく父と会うことができても、それは形だけの空疎な再会でした。アブシャロムは赦してもらえないことを悟って彼の心は完全に父から離れ、その時から彼は謀反を計画し、周到に準備を始め、ダビデから王位を奪いました。ダビデはすぐにエルサレムを出て逃亡生活を始め、両者は完全に敵対関係になりました。けれども、アブシャロムが率いるイスラエル軍と戦う頃からダビデの心にアブシャロムを息子として思いやる気持ちが生まれてきました。ダビデは戦場に行かないで町にいて家来達に戦いを任せることになりましたが、戦いが始まる前、ダビデは「私に免じて、若者アブシャロムを緩やかに扱ってほしい」と命じました。彼は戦況を知らせる使者達がアブシャロムを生け捕りにしたという吉報を持たらすと信じ込み、「若者アブシャロムは無事か」と語り、アブシャロムの死を知らされたとき、身震いして泣き、「わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と叫んで嘆きました。その嘆きはダビデが最後にアブシャロムを赦して愛する父親になれたことを表わします。
ところで、私達も自分にかかわる人達を問題があっても赦し愛することが目指すところです。ルカ15章の放蕩息子の父親は、問題があっても自分の息子を赦し愛した最大のモデルです。あの父親がしたことは神だけが出来ることです。私達は問題に直面すると、癇癪を起したり、愛想を尽かせたりします。ダビデほど酷いことにならなくても、ダビデと似たような問題を抱えて自分にかかわる人達をなかなか赦せないで苦労します。“夫のこの点が赦せない、妻のこの点が赦せない、親のこの点が赦せない、子供のこの点が赦せない”と私達は呟きますが、神のみこころはそういう人達を赦し愛せるようになることです。赦したときにはアブシャロムは死んでいましたが、ダビデが赦すように導かれたことに意味があります。彼が「若者アブシャロムは無事か?」と心から言えたのは幸いなことなのです。私達は上辺を取り繕っても心には複雑な思いがあり、心から赦すことが出来ないことが多いですが、神はその導きによって私達の心を変えて下さり、赦し愛する者にして下さるのです。神の導きに期待しましょう。