使徒19:9-20
「主の望まないものを捨てて得る恵み」 内田耕治師
初め説教題は“主の忌み嫌うものを捨てて得る恵み”を考えていましたが、“忌み嫌う”という言葉は厳し過ぎるので“主の望まないものを捨てて得るめぐみ“という題にしました。主の忌み嫌うこととは殺人、姦淫、盗み、偽りなどです。それらはだれでも悪いと思うことですが、聖書を読んで初めてわかる偶像礼拝も主が忌み嫌うことです。木や石や金属で造られた偶像の神々を持ち出して”これが神です。これを拝みなさい”と言うことによって真の神を崇めることを妨げ、私達を真の神から引き離します。お守りを持つことも、御神籤(おみくじ)を引くことも、占いをすることも、魔術をすることも知らない間に私達を真の神から引き離す偶像礼拝です。
ところで大女神アルテミスのお膝元であるエペソは偶像礼拝の町であり、お守りのような偶像が造られ、占いや魔術が盛んに行われていた所でした。パウロは2年の間、ツラノの講堂で毎日みことばを語りましたが、聞いていた人達の多くは偶像礼拝と関わりのある人達でした。イエス様を信じた人達が現れましたが、その信仰がどんなものなのか?依然として偶像を所持したり占いや魔術ときっぱりと縁を切ることが出来ていないクエスチョンマークの人達もたくさんいました。けれども、ユダヤ人の魔除け祈祷師スケワの7人の息子達がしたことがキッカケとなってそんな状態のエペソ宣教に奇跡的な悔い改めが起こりました。
パウロの宣教はみことばを語ると共に癒しや悪霊追放が伴うものでしたが、スケワの息子達はそれを真似して「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言って悪霊を追放しようとしました。すると悪霊は「自分はイエスを知っているしパウロもよく知っている。けれど、おまえたちは何者だ」と言って彼らにとびかかり懲らしめました。マルコ9章でイエス様が部外者もご自身の名を唱えて悪霊を追い出すのを容認したのとまったく反対です。どうしてか?それは人々が恐れをもって主を崇めるようになるためでした。主への恐れがエペソ中に広がって、ある人達は自分達のしていたことをさらけ出して告白しました。魔術をしていた人達はたくさんの魔術の本を捨てました。主の忌み嫌うものを捨てたおかげで主のことばは驚くほど広まり、ますます強くなりました。
ところで、このような奇跡的なみわざが起こる前、パウロはツラノの講堂で毎日みことばを語りながら、
“信じます”と言っても依然として偶像を所持したり占いや魔術をしたりする人達のことを薄々気づいて憤りや自分の力のなさや疲れを覚えながら、諦めないで毎日みことばを語り続けました。彼の宣教の姿勢は第二テモテ4章「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」でした。後半が大切です。語っても語ってもわかろうとしない人達に頭に来て顔をそむけたらパウロの負けですから、彼はどこまでも寛容を心がけ、機会を生かして絶えず教えました。また時には主の忌み嫌うことを捨てることなど厳しいこともズバリ語って責め、戒め、また勧めました。確かに奇跡的なみわざが起こりましたが、それはパウロではなく神がなさったことです。今、同じことを求めても意味がありません。むしろ私達もパウロのような立場に立たされているのですから、ツラノでそういう働きをしたパウロの宣教の姿勢から学ぶことができるのです。