ルカ9:18-27
「われに従え」 結城晋次師
23節 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」
このみ言葉を暗唱している人はいますか?このみ言葉はイエスが語られたメッセージの中でもとても重要なメッセージである。このみ言葉は「われに従え」と強制しているのではなく、わたしに従うかどうかを厳しく優しく問いかけている箇所である。
①自分を捨てる・・・この言葉の反対は「自分を大切にする」ということ。
人間はため込む癖があり、それによって安心を得ている。嵐で船が転覆する危険が差し迫ったときに乗員は「惜しげもなく、積み荷を海に捨てた」という聖書の記載がある。気球に乗って天に向かって上昇したいなら、私たちを縛り付けている「重り」(バテスト)を手放さなければならない。三陸の津波の時、昔の言い伝え(「すぐに山に避難しろ。後ろを振り向いてはいけない。親兄弟を心配してはならない。」 )の通り避難した人とできなかった人。私たちも財産や趣味を捨てることは何とかできるかもしれないが、自分を捨てることはできるだろうか? ガラテヤ2章20節においてパウロは、「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と告白している。
②日々自分の十字架を負う・・・キリストの歩まれた道をたどる。謙遜に歩む(ピリピ2:3-4)。何度も悔い改め、教えられ、立て直されていく。
③イエスに従う・・・「わかったら従う」のがこの世の考え方。アブラハムの信仰は「どこに行くのかわからないが、神様を信じて出発した」というもの。一歩踏み出してみないとわからない。「服従の霊を与えたまえ。」(同盟教団馬場牧師の祈り)世の中には不服従の霊、不信仰の霊が充満している。イエス従えば従うほど、み言葉がわかるようになる。従うほど自由な生活を送れるようになる。み言葉の知識だけで従わないのは、靴を履いたまま足の裏を掻くようなものである。
キリストを北極星とし、聖書を海図とし、聖霊を天からの通信電波として一歩を踏み出していく。その時、みずみずしい信仰の切り口がでてくる。水も滴(したた)るような信仰生涯がやってくる。
※結城先生は毎年一回夏に、当教会でメッセージの奉仕を継続してくださっていましたが、今回が当教会での最後のメッセージの奉仕となりました。いままでの奉仕を本当にありがとうございました。