使徒20:22-28

“キリストは命さえ惜しまず伝える救い主” 内田耕治師

 

どんなことが起こるかわからないのにパウロは心を縛られてエルサレムに行こうとしていました。ユダヤ以外の地でパウロはユダヤ人に命を付け狙われていたのにユダヤ人がたくさんいるエルサレムなら尚更、危険です。けれどもパウロは福音を証しする務めのために患難が伴うならば進んで受け入れようとしました。その背景には“福音を伝えることは伝える相手を救うだけでなく伝える自分をも救うことだ”というエゼキエル3章の預言があります。

「わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。――」エゼキエル3:17-21

見張り人は悪者にも正しい人にも警告を与える役割があります。役割通りにキチンと警告を与えたら「自分のいのちを救う」ことになり、警告を怠ったら「彼の血の責任を問われる」ことになります。パウロはこの預言に基づいて福音を伝える働きをしてきました。彼は告別説教で“自分は神のご計画の全体を余すところなく知らせた。だから、すべての人達が受けるさばきについて責任がない”と語りました。彼は人々が救われるためだけでなく伝えることを怠って責任を問われることから救われるためにも福音を宣べ伝えていたのです。かと言って伝えることを怠れば滅びるのか?主を信じれば救われます。けれども伝えられたのに伝えなかった悔いは残ります。その悔いが自分をさばくことになります。だから福音を伝えて救いを得るとはそのさばきから救われることなのです。パウロの願いとは、そのような宣教の姿勢をエペソの長老達が受け継ぐことでした。だから28節で「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」と語りました。

教会とは、神であるイエス様がご自身の血の代価によって罪の奴隷だった1人1人を買い取られて出来た群れです。けれども、その群れの1人1人はこの世にある間は常に罪と悪魔に誘われてつまずき倒れる可能性がある羊達です。また今は群れには属していないですが、神が選んでいる羊達がたくさんいます。そんな中で長老達は監督として立てられました。「監督」は見張る者です。「牧させる」は羊飼いになることです。要するに監督になるとは羊を見張り、みことばを教え導く羊飼いになることです。

ところで、主は今の私達にもエペソの長老達と同じことを期待しておられます。大牧者であるイエス様にとって私達は羊であると同時に羊飼いです。私達はそれぞれ弱さを抱えた者達ですが、主は弱さを抱えた私達をあえて羊飼いとして選び、見張り人としてそれぞれの場所に置いています。私達に関係する人達は私達の羊なのです。見張るとは気にかけ祈りに覚えることから始め、あらゆる機会を生かしてみことばを伝えることです。パウロと同じように“すべての人達が受けるさばきについて責任はない”と言えることを目指すのです。