ヨハネ14:1-6、15:16 

「神のみこころに適った正しい道」  内田耕治師

 

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします今年も神のみこころに適った正しい道を歩んでいきたいと思います。では神のみこころに適った正しい道とは何か?

道はある目的地に行くための過程です。だから、その目的地によって道は決まります。だから何が私達にとって正しい目的地なのか、しっかりとわかっていることが、迷わないで正しい道を歩む方法です。では、私達にとって正しい目的地とはどこか?初めに結論を言ってしまうと、それは天国です。人間はだれでも1度は死ななくてはなりません。死んだ後どうなるかだれもが恐れています。人間はみんな死という問題を抱えて生きています。でも聖書はその問題に天国という解決を教えています。だから、私達が目指すべき正しい目的地は天国です。ところが、私達はこの世の移り変わる目標を代わりの目的地にして歩んでいます。でも、それらは本来の目的地ではないですから、手に入れてもそのうちに空しくなります。この世での目標も私達には必要ですが、天国という目的地をしっかり持った上でこの世の目標を目指すのでなければ、少しの試練や挫折で心騒がせ、迷ってしまいます。

ところで天国という目的地があまりわかっていないのはイエス様の弟子達も私達と同じでした。イエス様が「心を騒がせてはなりません」と言ったように彼らも少しの試練や挫折で心騒がせ迷ってしまう弱さを抱えた人達でした。けれども、イエス様はそんな彼らに愛をもって丁寧に正しい目的地である天国とそこに至る道を教えて導こうとしました。まず天国についてイエス様は2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」と語りました。「わたしの父」とは神のことです。「父の家」とは、神がいる所つまり天国のことです。「住む所がたくさんあります」とは、天国にはスペースがたくさんあるから、あなたがたもやがて天国に住むことができるということです。

さらにイエス様は「あなたがたのために場所を備えに行く」とか「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と語りました。イエス様はその時、もう少ししたら弟子達から去って父なる神がいる天国に行こうとしていたのでこう言ったのですが、これもあなたがたの目的地は天国だということです。

次に4節を見ると、イエス様は「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と語りました。イエス様はどこに行くのか?さっき言ったように「父の家」です。つまり、それは天国です。とすると「イエス様が行くその道」とは天国への道です。さらにイエス様は“あなたがたはその道を知っているはずです”と言いました。ところが、トマスを初めとする弟子はそれがよくわからなくて「主よ、どこへ行かれるのか、私達にはわかりません」と言いました。それでイエス様はもっと明確な言い方で自分が天国への道であることを語りました。それが6節の「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」という有名なみことばです。「わたしが道である」とは、天国への道とはイエス様ご自身だということです。しかもイエス様は天国への唯一の道です。そのことが「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」というみことばに現れています。

ある人達はイエス・キリストだけが天国への道だということを狭いとか、排他的だと言いますが、もしイエス様でもいいし、仏でもいいし、アラーでもいいし、――なら、わざわざイエス様を宣べ伝える必要はありません。どうぞ、好きにしてくださいというだけです。けれどもイエス様が天国への唯一の道だからこそ、聖書が書かれ、多くの人達が今日までイエス様の道を宣べ伝えてきました。ところで、その道を歩むようになるのは、主が選んで下さったからです。聖書は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためです」と言っています。自分の意志で決心して“イエス様を信じた、イエス様を選んだ”と言っていても、そのうちにその意志が弱ったり、他のものに関心が向いてその決心が曖昧になり、惰性で形だけでイエス様の道を歩んでしまうことがあります。何が問題かというと、自分を中心にしてイエス様の道を考えているからです。自分を中心にして考えているから自分がダメになったら、その道を歩むこともいい加減になります。自分がイエス様を忘れたら、その道を歩むこともなくなります。だから聖書は“私達がイエス様を選んだのではなく、イエス様が私達を選んだ”と、自分ではなく主を中心にして主から私達の信仰が始まったことだと教えています。

主イエスが私達を選んで下さったとは、神が私達に凄いプレゼントを下さったことです。神からのプレゼントは、たとえ私達が忘れても、存在するものです。すなわち、私達は忘れても主は私達を選んだことを忘れず、覚えていて天国への道をしっかり歩めるように導いて下さいます。それが、私達が神から与えられたプレゼントです。それが天国に至るイエスキリストの道です。

“イエス様のことは忘れてもいいぞ”ということではありませんが、私達はイエス様を信じれた神の恵みを覚えるべきですが、大事なことは主が私達を選んで下さったことは変わらず私達はイエス様の道を歩んで天国に向かっていることです。私達は主を忘れても、主は私達を忘れず、イエスキリストという天国への唯一の道を歩ませて下さる。このことを心に留めて新しい年を歩んでいきましょう。