マタイ3:1-12

「神は石ころからでも神の民を起こすことができる」  内田耕治師

 

ヨハネはユダヤの荒野で教えを宣べ伝えていました。「このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」という生活をしていました。彼のメッセージは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」で“悔い改め”を強調していました。また「荒野で叫ぶ者の声がする。“主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。”」と言ってメシヤが来るための道備えをしていました。ヨハネはやがて来られるメシヤが「―――私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」とか「また手に箕を持って、御自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」と言っていました。ヨハネはメシヤを聖霊によってバプテスマを授け、世の罪や汚れを洗いきよめるお方だと人々に紹介していたのです。

ところで、私達のバプテスマは、イエス様を信じることによって古い自分が死んで新しい歩みを始めた印(しるし)ですが、ヨハネの授けたバプテスマは主の前に悔い改めたことを表わす印でした。旧約聖書にバプテスマという言葉はありません。どうしてか?バプテスマは旧約時代の後ユダヤ教が生まれてからするようになった儀式だからです。その背景には異邦人の改宗がありました。自分達だけが神の民だと言う選民意識が強いユダヤ人は異邦人を汚れた者達だと思っていました。だから異邦人がユダヤ教に改宗するとき、罪や汚れを洗い落とすという意味でバプテスマを要求しました。一方、生まれながらに神の民であるユダヤ人はバプテスマを受ける必要がありませんでした。これが従来のあり方でした。

けれども、ヨハネはむしろユダヤ人に悔い改めを宣べ伝え、罪を悔い改めた印としてバプテスマを授けていました。では、彼らの罪とは何か?それは個人的にはいろんなことがあったでしょうが、民族としては“自分達は神に選ばれた民だという選民意識でした。特にヨハネは当時の宗教家に対しては徹底した厳しさで悔い改めを迫りました。「ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。“まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら悔い改めにふさわしい実を結びなさい。”」と語りました。どうしてか?宗教家たちこそ、強い選民意識を持ち、民衆にそれを吹き込んで高ぶらせ選民として行うべき様々な儀式や掟を教えて守らせて民衆に大きな影響を及ぼす者達だからでした。

さらにヨハネは神のさばきを語ることで悔い改めを迫りました。「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」「木」とはユダヤ教の宗教家たちを表します。「良い実を結ばない木を斧で切り倒されて火に投げ込まれる」とは神のさばきを表します。しかも「斧が木の根元にある」とはすぐにでもさばきがなされることです。そして「良い実」とは「悔い改めにふさわしい実」です。では「悔い改めにふさわしい実」とは何でしょうか? その実は「――神はこれらの石ころからでもアブラハムの子らを起こすことができる」というところに現れています。「石ころ」とはその辺に転がっている石のことです。それはありふれてまったく価値のない無に等しいものですが、自分達はそういう石ころなのに神は自分達を選んで価値あるものとして下さったという信仰になることです。石ころである自分を神が選んで下さったから今自分は神の民なったのです、そのような信仰になることが悔い改めにふさわしい実なのです。

それは例えて言いますと、私がプロ野球のドラフトに選ばれるようなものです。ドラフトに選ばれる選手たちは選手としての可能性を見込まれて選ばれます。彼らは球団から見たらダイヤモンドです。しかし私はプロの野球選手をする可能性はゼロです。体力はないし、運動神経はダメだし、若くないし球団から見たら私はその辺に落ちている何の価値もない石ころのような存在です。だから、もし私がプロ野球のドラフトに選ばれたならば、それは石ころを拾ってダイヤモンドにするようなものです。プロ野球がそんなことをするはずがありません。けれども神は人間が決してしないようなことをなさるのです。すなわち、神はもともと石ころであるユダヤ人を拾ってダイヤモンドとしたのです。だから神は石ころから神の民を起こすという信仰を持つことが悔い改めにふさわしい実なのです。

ところで“神は石ころから神の民を起こすことができる”ということは私達にとって非常に大事なことです。ユダヤ人とともに異邦人である私達は聖なる神の前に出たら、滅ぼされても仕方がないような罪人で何の価値もない無に等しい石ころのような存在でした。けれども何の価値もない無に等しい石ころから神の民を起こす神の恵みによって私達はイエス・キリストを通して罪の赦しを与えられ神の民となりました。私達はどんなに努力しても、どんなに良い行いをしても神の民になることはできません。石ころをダイヤモンドにすることは私達にはできません。神だけが出来ることです。だから、私達は石ころからダイヤモンドにしていただいた神の恵みを感謝して神をほめたたえます。神は石ころからでも神の民を起こすことができる。それが私達の立つべき信仰です。

ところで、私達はその信仰から時々ズレることもありますから気をつけなくてはなりません。私達が子供の頃、愚かなことをして時には人に迷惑をかけてしまう未熟な者でしたが、大人になって1人前になると、愚かな子供時代を忘れてしまい、さらに子供の頃から優れたものを持っていたと思い込むことがあります。それが高ぶりの始まりですが、神の民とされたことも、同じように石ころだったことを忘れて自分はダイヤモンドの原石だったから神は自分を選んで神の民にしたと思うことがあります。そうなったら私達もユダヤの宗教家と同じです。どうしてそんなことになるのか?自分が石ころだったことを忘れて、もともとダイヤモンドだと思ってしまうからです。だからこそ、私達にとっても神が石ころの私達を選んでイエスキリストを通して神の民にして下さったという信仰が大事なのです。その信仰を守るためにどうすればいいでしょうか? 石ころからイエスキリストを通して神の民にしてくださった神の恵みを心に留めて神に感謝し、神をほめたたえることです。

それがその信仰を守る秘訣です。神とその御子イエスキリストによって石ころからダイヤモンドにしていただいた恵みを喜びましょう。