マタイ3:13-17
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 内田耕治師
ヨハネが荒野でユダヤ人を対象に悔い改め運動を展開していると、イエス様も他の多くの人達と同じようにヨハネからバプテスマを受けるために荒野にやって来ました。けれどもヨハネはすぐにイエス様が特別なお方だと気がつき「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところに来られるのですか」と言ってイエス様にバプテスマを授けることをためらいました。するとイエス様は「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが私達にふさわしいのです」と言って、その言葉に説得されてヨハネはイエス様にバプテスマを授けました。すると天が開け、神の御霊が鳩のようにイエス様に降り、また天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という父なる神のみ声が聞こえてきました。
この出来事の背後には旧約聖書の2つのみことばが存在します。2つの預言のみことばが成就してイエス様のバプテスマが起こったのです。1つは、詩篇2:7の「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。」です。これが「これはわたしの愛する子」の背後にあります。何だか子供が生まれたことを喜ぶような感じがしますが、詩篇2篇をよく読むと、それは子供の誕生ではなく王の即位を描いています。場所は王宮ではなく荒野、家来達はおらず、いたのはヨハネと民衆だけでした。けれども、それはイエス様が神の国の王となった即位式なのです。次にもう1つがイザヤ42:1の「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさはきを行う。」です。これが「――わたしはこれを喜ぶ」の背後にあります。喜ぶとはご自身の愛する子イエス様が神の国の王として即位されたことを喜ぶ神の喜びを表しています。
さらにこのみことばは、イエス様のバプテスマの様子やその後のことまで語っています。たとえば、「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」これはヨハネがイエス様にバプテスマを授けると、天が開けて神の御霊がイエス様に降ったことを表わします。「彼は国々にさばきを行う」これはやがてイエス様が世の終わりに再臨したときに全世界をさばくようになることです。この預言はまだ実現していませんが、やがて時が来たらイエス様は再臨されてその通りに全世界をさばくようになります。また、間接的に十字架も語っています。「わたしの愛する子」がイザヤ42章では「主のしもべ」になっています。旧約聖書はメシヤのことをよく「主のしもべ」と言うからです。救い主とはしもべとして神に仕えることができる者です。「主のしもべ」についてはイザヤ53章が非常に大切なことを教えています。それは、何の罪もないのに人々の罪を代わりに背負って受難する“苦難のしもべ”です。
「しかし、彼は私達の背きの罪のために刺され、私達の咎のために砕かれたのだと。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私達は癒された。」イザヤ53:5
この預言通りに2000年前、イエス様は十字架にかけられました。そしてイエス様の砕かれた体や流した血によって私達は罪が赦され、救いを受け、神の民となることができます。前回は少し前の9節の「――神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる」という所から“神は石ころから神の民を起こす”というお話をしました。神は何の価値もない石ころである私達を見捨てないで拾って神の民にしてくださいます。石ころの私達を神の前にダイヤモンドにして下さいます。けれども、それはイエス様の十字架によってのみ可能となるものです。本来何の罪もないお方であるイエス様が罪ある者とされることが必要なのです。イエス様のバプテスマはそのころを表わしています。
「このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」
「正しいこと」とは何か?「ふさわしい」とは何か?ヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言って人々に罪を告白させた上でバプテスマを授けていました。ヨハネのバプテスマの意味は悔い改めでした。だからヨハネの所にやって来てバプテスマを受ける者は罪ある者でした。ところで悔い改める必要のないイエス様も他の罪ある者達と同じようにヨハネの所にやって来て悔い改めのバプテスマを受けました。つまりイエス様が言う「正しいこと」とは本来罪はないイエス様が自分を他の人達と同じように罪ある者としたことなのです。一方、「わたしたちにふさわしい」とは何か?「ヨハネにふさわしい」とはイエス様に悔い改めのバプテスマを授けてイエス様を罪ある者とすることです。また「イエス様にふさわしい」とは言いましたように本来罪のないイエス様が罪ある者とされることです。「正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしい」とは、ヨハネが罪のないイエス様を罪ある者とし、イエス様がヨハネによって罪ある者とされることなのです。
このことをじっと考えてみたら、ある重大なことに気がつきました。それは今の私達もイエス様を罪ある者としているということです。私達はヨハネと少し違って自分の罪をイエス様に着せることによってイエス様を罪ある者として十字架にかけています。けれども、そのようにしてイエス様を罪ある者とするからこそ私達は救われています。イエス様を罪ある者とするからこそ、私達は罪の赦しを受け、神の民とされ、きよいダイヤモンドにされています。だから、私達は積極的に自分の罪をイエス様に着せてイエス様を罪ある者としていいのです。いや、むしろイエス様を罪ある者として十字架にかける必要があるのです。なぜなら、それこそが私達が救いを受ける根拠だからです。もし私達が人間的な思いになって聖なるイエス様に罪を着せることをためらうなら、私達は汚れた石ころのままに捨て置かれて滅んでしまいます。イエス様はためらうヨハネを説得してバプテスマを授けさせたのと同じように、私達にも自分の罪をイエス様に着せてイエス様を罪ある者とし、十字架にかけることを熱心に勧めています。十字架自体は非常に大きな苦痛を伴うものです。けれども、イエス様は“わたしはあなたの代わりに喜んで十字架にかかります。だから遠慮しないで、ためらわないで進んであなたの罪をわたしに着せて、わたしを罪ある者として下さい”と言っています。私達にはイエス様からそう言っていただける特権があります。だから、進んで自分の罪をイエス様に着せてイエス様を罪ある者として十字架にかけてイエス様の血によってきよいダイヤモンドに変えていただいたらいいのです。