マタイ2:13-23
“ナザレ人と呼ばれるイエス様” 内田耕治師
幼子イエスはヨセフの動きに伴い、あっちへ行ったり、こっちに来たり、また別の所に行ったりと幼少期にかなり移動しました。マタイ伝はこのような幼子イエスの動きを大昔のモーセに関連付けて描いています。たとえば、モーセの時もイエス様の時も大勢の幼子が殺されました。エジプト王はイスラエル人の家族に男の子が生まれたら殺すように命じて大勢の何の罪もない幼子達が殺され、ヘロデ王は博士達に「騙された」と思って激怒しベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を全部殺しました。マタイはその嘆きと悲しみを17-18節でエレミヤ書31章のみことばを用いて表しています。「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが、ラケルが泣いている。その子らのゆえに慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」イエス様の代わりにどうしてベツレヘムの幼子達が殺されなくてはならなかったのか私はよくわかりません。モーセもイエス様も危ない所で死の危険から救い出されました。パピルスの籠に乗せられナイル川に流されたモーセは、見つけてくれたエジプトの王女が“可哀想”に思ってくれたので救われました。一方、イエス様はエジプトに逃げたことによって救われました。
次にマタイはモーセの次にイスラエル人とイエス様を関連付けて書いています。たとえば、イスラエル人もイエス様もエジプトから出て来ました。15節の「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」はホセア11章からの引用ですが、このみことばはもともとモーセに率いられたイスラエル人がエジプトから出て来たことを表わしています。一方、幼子イエスはヘロデが死ぬとイスラエルの地に帰るためにエジプトから出て来ました。マタイ伝は「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」というホセアの預言を引用して、その預言は幼子イエスがエジプトから出ることによって成就したと書いています。
イスラエル人もイエス様もあちこちと行き来した後、目的地ではない所に長期間、住むことになりました。たとえば、イスラエル人は目的地である約束の地の近くまで来たとき、そこは素晴らしい所でしたが、そこに住む先住民が大きく強そうに見えたのでは恐れをなして前に進まなかったので結果的に彼らは荒野で40年間過ごすことになりました。一方、ヨセフは主のみ声を聞いてエジプトを出てイスラエルの地に向かいましたが、ユダヤは父ヘロデと同じように残忍で評判の悪いアケルラオが治めていました。それを恐れたヨセフは目的地ではないガリラヤ地方に行きました。その結果、イエス様は30才になって公に救い主として活動を始めるまでガリラヤのナザレという小さな町に住むことになりました。イスラエル人もイエス様も目的地ではない所に長く住んで将来のために準備をしました。たとえばエジプトの奴隷生活に慣れていたイスラエル人は約束の地でやっていくには不向きだったので神は彼らを荒野に導いてそこで主に信頼して歩むことを学ばせました。一方、イエス様はナザレ人と呼ばれるようになりました。イスラエルの北部のガリラヤは辺境の地であり、その中でも特にナザレの町は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われるような何もないド田舎だから“ナザレ人と呼ばれる”とは人々に田舎者として蔑まれるという意味でした。23節に「これは預言者達を通して“彼はナザレ人と呼ばれる”と語られたことが成就するためであった」とあります。実は旧約聖書に“彼はナザレ人と呼ばれる”というみことばはないのですが、それは預言者達がメシヤは人に蔑まれるようになると預言したということです。例えば、詩篇22:6-7「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。」とあります。またイザヤ53:3「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」とあります。その他にも幾つかあります。だからイエス様は王であり預言者でありながらナザレ出身で田舎者の大工の息子として低くされ蔑まれた者としてこの世に現れたのは救い主として活動するための準備でした。
どうして低くされる必要があったのか?それは低くされることで救い主として用いられ高くされたからです。そのことを教える代表的な箇所がピリピ書の2章です。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現われ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべてにまさる名を与えられました。――――」
イエス様は自らを低くされて十字架の死にまで従われたからこそ神はイエス様を救い主として用いて高く上げられたのです。もし低くされず十字架にかからなかったらイエス様は救い主ではありません。だから、イエス様はナザレ人と呼ばれて低くされたのです。ところで、このことはイエス様だけでなく私達の生き方にも当てはまることです。私達も自分を低くする者はそのうち主に用いられて高くされますが、自分を高くする者は主に用いられず低くされます。だからヤコブ書1章には自分が低くされることを喜べというみことばがあります。「身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。」私達はしばしば自分の低い身分を不満に思ったり、低くされていることを頭に来たりしますが、実は低くされていたら、それはやがて高くされることだから喜ぶべきことです。「富んでいる人は自分が低くされることを誇りとしなさい。――」普通なら豊かな者はその豊かさを自慢し、周囲の人達に羨望の目で見られることを誇りとします。けれども、聖書はその豊かさが無視され、低くされることを誇りとせよと教えています。どうしてか? やはり自分を低くする者を主は用いてやがてその人を高くするからです。
だからイエス様と同じようにナザレ人と呼ばれることは私達にとって光栄なことなのです。そう言われるために自分を低くして歩みましょう。