ヨシュア6章
“自分はできなくても主がしてくださる” 内田耕治師
主はみこころならば、出来ないことを出来るようにし無理なことを可能にして下さいます。イスラエル人がモーセに率いられてエジプトを出て約束の地カナンに入ったことはそういうことでした。たとえば、彼らは過越の奇跡によってエジプトを出ることができ、葦の海に道を造った奇跡によって彼らを追うエジプト軍を振り切ってシナイ半島に行くことができました。
40年の荒野の生活を終えてヨシュアが指導者になってから彼らはヨルダン川の水を涸らす奇跡によってその川を渡り、約束の地カナンに入ることができました。そしてヨシュアを初めとするイスラエル人はエリコの攻略に取りかかりました。その城壁は非常に堅固でしたが、彼らは今回も主の奇跡的なみわざによってエリコを落とすことができました。
(1)礼 拝
そのみわざはどのようにして起こったのか?礼拝をささげることによって起こりました。だから6章から私達は戦いではなく礼拝を学ぶことができます。創世記1章に神が6日で天地のものをすべて造り、7日目は休まれた天地創造の出来事が書いてあります。イスラエル人はそれに因んで6日間働いて7日目は仕事を休み主を礼拝する生活をするようになりました。
イスラエル人は、それに倣ってまず1日1回、エリコの町を6日間回りました。武装した戦士達がまず前を進み、7人の角笛を持った祭司達が角笛を吹き鳴らしながら進み、その後に主の契約の箱が進み、祭司のしんがりは主の箱の後を進みました。そして7日目には朝早くに起きて、それまでと違って7回町を回りました。7周目に祭司達が角笛を吹き鳴らすと民は初めに指示された通りに一斉に“ときの声”を上げました。彼らのしたことはすべて礼拝でした。町を回ることは6日間も7日目も同じです。7日目は回る回数が7回と多いですが、同じことをします。また角笛を吹くのも6日間と7日目と同じです。だから6日間は7日目の礼拝の準備をする小さい礼拝で、7日目は6日間の小さい礼拝をまとめて集大成したような礼拝でした。そのように彼らが礼拝を献げると、彼らは何もしていないのにエリコの城壁は崩れ落ち、イスラエル人はエリコに攻め込むことができ、カナンの地に入る突破口が開けました。
ところで、聖書は今の私達も同じように主を礼拝したら、この世の現実的なことにも必要が満たされ活路が開けると約束しています。マタイ6章に「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」とあります。「神の国と神の義を求める」とは何か?それは基本的に礼拝を献げることです。礼拝を献げたら即仕事が進み、お金が儲かるわけでもないのに、私達も毎日みことばと祈りの時を持つことで小さな礼拝を献げて日曜日には小さな礼拝の集大成として主日礼拝を献げます。すると必要を満たされ、祝福を受けることができます。そのことをイスラエル人から学ぶことが出来るのです。
(2)礼拝の献げ物
また礼拝には必ず献げ物が伴います。エリコの攻略という礼拝の献げ物はエリコの町、人々、家畜、金、銀、青銅、鉄の器などすべてでした。それは聖絶のものと言われました。聖絶のものとは献げ物として神にささげたものだから自分の物にしてはいけないものでした。26節でヨシュアは「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」という奇妙なことを言いました。神に献げたはずの献金をまた取り戻して自分のために使ったら、献金にならないのと同じように、神の前にエリコの町を聖絶のものとして献げたのに、それを自分達のために再建したら聖絶のものにしたことになりません。だからヨシュアはエリコの再建を禁じました。エリコの町は神への献げ物だったのです。
今の私達も献げ物をすることで主を礼拝しています。私達が献げているものは、時間、献金、奉仕などです。それから何よりも自分自身を主の前に差し出すことが尊い献げ物です。ローマ12章に「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」と書いてある通りです。
(3)礼拝で得られる実ともう1つの献げ物
また礼拝によって得られる実があります。イスラエル人はエリコ攻略という礼拝を通してラハブとその家族という素晴らしい魂の実を得ることができました。でも、ラハブとその家族という魂の実を得るためにはエリコの町という献げ物が必要でした。
今の私達がささげている礼拝も魂の実を生み出すことができます。それは私達の礼拝にもある献げ物があるからです。その献げ物とは時間やお金や奉仕や私達自身ではありません。もう1つ大事な献げ物があります。それは神の御子イエスキリストです。イエス様は私達ではなく、神がささげた献げ物です。イエス様は私達の罪の身代わりとして十字架にかけられました。それは罪の支配下にある魂を神の側に取り返すための献げ物なのです。へブル10:10「このみこころにしたがって、イエスキリストのからだが、ただ1度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」神が御子であるイエス様を2000年前1度ささげた。その献げ物によって私達の礼拝は滅びゆく人を救いに導き、魂の実を得ることが出来るのです。
私達はみことばを伝えたり祈ったりできても、人を救いに導くことはできません。それはご自身のからだをささげられたイエス様だけが出来ることです。だからこそ私達は十字架にかけられて献げ物となられたイエス様を礼拝するのです。十字架にかけられたイエス様を礼拝することは伝道の突破口です。毎週、礼拝をささげていても“信者だけでなかなか求道者が来ない。だから人が救われない”という思いを持つかもしれません。けれども、私達が十字架にかけられたイエス様を礼拝するからこそ、主のみわざが起こって魂は救いに導かれるのです。