マタイ5:27-32

“健やかな結婚生活”  内田耕治師

 

結婚とは1人の男性と1人の女性が生活を共にすることが原則です。現代はLGBTというその原則から外れた結婚をする人達が自分達のあり方を主張し、世の中もそれを認める風潮が支配的で、それと異なる見解は何も言えない状況があります。けれども、これは現代だけの問題ではありません。初代教会が盛んに福音を宣べ伝えていたギリシャ・ローマ世界にも似たような問題がありました。そんな中でパウロはみことばを語りました。ローマ1:26-27参照。

イエス様や初代教会の時代にはギリシャ・ローマ世界の他にユダヤというもう1つの世界がありました。ギリシャ・ローマは多神教の世界でしたがユダヤ人は厳格な一神教の世界であり、ギリシャ・ローマ世界の結婚観はいろいろでしたが、ユダヤは結婚の原則からはみ出すあり方を許す風潮はまったくなく、結婚関係を聖なるものとして守る世界でした。「姦淫してはならない」はそのための戒めであり、罰則もありました。姦淫の罪を犯したら男も女も石打の刑にするという厳しいものでした。

そのような戒めを背景にしてイエス様は姦淫の罪をもっと内面的に捉えました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」だれもがこのみことばを読むと、自分は心の中ですでに姦淫を犯したことを認めざるを得なくなります。

イエス様がそう言う前から律法学者やパリサイ人は心に情欲がわかないように女性と話をしないとか、女性から遠ざるとかしました。イスラム教は女性にヴェールを被せて完全に見えないようにすることで心の中の姦淫を防ごうとします。では、私達はどうするか?イエス様は「もし右の目があなたをつまずかせるなら、抉り出して捨てなさい。」とか「もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。―――」と言いました。文字通りには受け取れないみことばです。イエス様はよく極端なものの言い方をしますから、それは警告として受け止めたらいいでしょう。

だから私達としてすべきことは、心の姦淫を認めながらその罪のために血を流して赦しを下さるイエス様に信頼し、心の思いを治めて実際に罪を犯さないように心がけることです。その際に創世記のヨセフは、私達にとって良い模範です「――どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか」私達はこのヨセフの信仰に見倣うべきなのです。

次にイエス様は、姦淫について心の情欲だけでなく、もっと根本的なところから姦淫を考えました。それは単に肉体的な欲望だけでなく、妻に気に入らない所を見つけたら、別れてでも取り替えたくなる移り気なところから姦淫は始まるということでした。昔ユダヤでは、人は妻を娶った後で、気に入らないところが出て来た場合、離縁状を書いて妻に渡せば、妻を去らせる、つまり追い出すことができました。そしてその女は他の人の妻となることが出来ました。参照、申命記24:1-4

それが「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」です。つまり夫は自分の身勝手で簡単に妻を追い出すことができ、追い出された妻は次に良い夫が見つかることに後の人生を賭けました。けれども、イエス様は男の身勝手を許すその結婚制度に徹底的に反対しました。「わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。」これは一見、もし離婚して妻を追い出したら、妻をとんでもない境遇に追い込んで姦淫を犯させることになる。だから、どんなことがあっても結婚生活を続けなさいと夫達を戒めているように見えますが、当時の結婚制度そのものを否定したのです。そのことはその後の「離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです」を見れば明らかです。一見、離縁された女性が再婚する道を閉ざすように見えます。けれども、これは男性の身勝手を許す当時の結婚制度そのものを否定するための教えなのです。イエス様が問題にしたのは、当時の結婚制度と、その背後にある妻が気に入らなくなると代えようとする移り気な夫の心でした。

ところで、今は、イエス様の時代のような酷い結婚制度はなく、男女同権が認められ、夫が妻を一方的に追い出すことはできません。だから、イエス様の時代の人々から見たら、羨ましい限りの社会です。けれども、気に入らなくなったら代えたくなる移り気な心は今の私達にもあるので結婚制度は良くなっても、離婚する人達はたくさんいます。初めは愛していても付き合いが長くなると、気に入らないところが出て来ることはいつの時代にもだれにでも起こることだからです。でも、そういう移り気な心こそが、姦淫の源であり、不幸な結婚生活を招いてしまうのです。だからイエス様が勧める健やかな結婚生活とは、その逆のあり方すなわち、相手の内に気に入らない所を見つけても忍耐して互いに受け入れ合う歩みをすることです。

忍耐して受け入れることは、飾ることがなく重荷を負い合う結婚生活やそれから始まる親子関係を通して最もよく学ぶことが出来ます。結婚生活とは、忍耐して受け入れ合い、共に歩んでいくことを学ぶ学校なのです。でも、その学校から自主退学してしまえば、忍耐して受け入れ合うことも、共に歩むことも学ぶことが出来なくなります。だからイエス様は当時の結婚制度に反対したのです。また結婚生活以外でも、たとえば学校や教会や職場や親戚付き合いや友達付き合いや近所付き合いなどあらゆる人間関係を通して忍耐して受け入れ合うことを学ぶことが出来ます。家庭生活とはまた違った視点で学ぶことができます。

忍耐して受け入れるとは愛です。第一コリント13章に「愛は寛容です」と書いてあります。英語訳では”Love is patient”「忍耐」、原典ギリシャ語はマクロシュミア「忍耐」です。相手の足りない所や気に入らない所を忍耐して受け入れることは“寛容”とも言えるからです。イエス様は人々がこの愛を学ぶことが出来るようになるために、当時の結婚制度に反対し、今の私達にもその愛を学ぶことを期待し勧め、励ましているのです。それが健やかな結婚生活であり、健やかな人間関係なのです。