マタイ5:33-37

“偽りのない真実を語れ”  内田耕治師

 

私達の人間関係や社会は互いの信頼、信用で成り立っています。信頼や信用は私達が互いに交わす言葉が真実であることにかかっています。私達の語る言葉が真実であれば、信頼関係を築くことができるし、私達の語る言葉が不真実であれば、信頼関係が崩れてしまいます。けれども、私達の語る言葉は案外、その場しのぎの適当なことや口先だけの無責任なことを平気で言うので不確かで不真実なものがたくさん含まれています。だから人類は普段の言葉とは別に、確かで信用できる言葉として誓いというものを発達させてきました。誓いとは誓約とも言いますが、言ったことに責任を持つ言葉を語ることです。

けれども、現実的には誓ったにもかかわらず、その通りに果たさないことがよく起こります。政治家が選挙で言う口約や三日坊主になりやすい私達の年頭の誓いはいい例です。最近は日本の企業も売り上げを伸ばすことだけに邁進し、人手不足も手伝って、手間のかかる検査をしないにも関わらずキチンと検査したと嘘をついたりデータを改竄したりと組織ぐるみで嘘をつきます。

ところでユダヤ人の社会でも、他の民族と同じように誓ってもその通りに行わなくて誓いの言葉が不真実なものになる問題がありました。それで神の御名によって誓うならば、必ずその通りにして、しかも遅らせてはならないと教えていました。けれども、主の御名を特別視することによってかえって弊害が出て来ました。それは神の御名によって誓ったことは絶対に果たさなければならないが、神の御名以外のもので誓ったことは口先だけでもいいと人々は考え、口先だけの誓いを蔓延らせる抜け道になってしまったのです。それゆえイエス様は神の御名であろうと、神の御名以外のものであろうと、誓うこと自体が神に誓うことだと教えました。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の御座だからです。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都だからです。自分の頭にかけて誓ってもいけません。―――」

さらにそんなことまでして口先だけの誓いをしたいのなら、誓うこと自体を止めて、ただ出来るか出来ないかありのままを語りなさい。それが真実な言葉を語ることだと教えました。「“はい”は“はい”、“いいえ”は“いいえ”としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」

ところで、私達はユダヤ人みたいに「天だ、地だ、エルサレムだ、自分の頭だ」などとは言いませんが、私達も誓いの言葉を不真実にするのは同じではないでしょうか?だからイエス様は私達にも“出来ることは出来る、出来ないことは出来ない”とありのままを率直に言って普段から真実な言葉を語ることを教えています。普段から真実な言葉を語るとは私達の言葉から偽りを取り除くことです。「“はい”は“はい”、“いいえ”は“いいえ”としなさい」の後に「それ以上のことは悪い者から出ているのです」とあります。普通ならば、それ以上のことは余計なことですと言いますが、「悪い者」とは取り除くべき偽りを表します。偽りが人をガッカリさせ、つまずかせ、信頼関係を崩したり、信用を失わせたりします。だから、私達の言葉を真実なものにするとは私達の言葉から偽りを取り除くことなのです。

では、そのためにどうするか?それは主とともに歩むことです。主とともに歩むとは、罪をそのままにしない聖なる神とともに歩むことだからです。その良い例が創世記のヨセフです。ヨセフは主人であるポティファルの妻から執拗に誘惑されたとき「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」と言って彼女の誘惑を退けました。ヨセフは主とともに歩んだから「どうしてーー神に対して罪を犯すことができるでしょう」と言うことが出来ました。ところでヨセフの場合、姦淫の罪でしたが偽りの場合も同じです。それは神に対する罪です。だから私達は主とともに歩むことで自分のうちから偽りを取り除くことが出来ます。

たとえば、自分だけで歩んでいたら、自己中心的な自分の願いを満たすことだけが善になります。だから偽りであっても自分の願いが満たされるなら“いいじゃないか”となり、平気で偽りを語ります。けれども、主とともに歩めば“主の前にこんなことで果たしていいのか”と思いますから、そうは行かなくなり自分のうちから偽りを取り除こうと心がけます。また自分と仲間だけで歩んでいたら、仲間を守るために本当はダメなことでも、隠しておこうとします。それがこれまで日本の企業に存在した組織ぐるみの隠ぺい工作です。でも、それを放置しておくと後でもっと酷いことになります。今、問題が次々と発覚していますが下手をすると日本企業の衰退につながるかもしれません。

けれども、主とともに歩めば“主の前にこんなことで果たしていいのか”と思いますから、自分達のうちから偽りを取り除こうと心がけます。だから、“主の前に果たしてこんなことでいいのか”という意識を持つことが、私達の言葉を真実なものにしていくのです。そして自分のうちから偽りを取り除いて真実な言葉を語ることこそが、主の栄光を現すことです。

主の栄光は何か立派なことをするとか、素晴らしい奉仕をすることだけではありません。ごくごく平凡な歩みをしているけれども“あの人は偽りがない嘘がない真実な言葉を語る”ということだけで主の栄光を現しています。そういう意味で私達は主から期待されています。この世は嘘偽りの多い社会ですが、そんな中で小さな存在ですが、偽りがない真実な言葉を語って主の栄光を現していきましょう。