ルカ1:26-38
“御使いガブリエルの知らせ” 内田耕治師
マリヤはヨセフの許嫁で当時、結婚するのは早かったから10代(日本で言うと中高生)と考えられます。夫のヨセフはダビデの子孫であることを証明する系図がありますがイスラエルの系図は母や娘など女性の名前は普通書かないのでマリヤには系図はありません。エリサベツの親類で、エリサベツはアロンの子孫なのでマリヤもそうかもしれませんが確証できません。「卑しいはしためです」と言ったことから推測すると高貴な生まれではなくて庶民だったようです。けれどもマリヤが救い主を産むという神のご計画のために選ばれていたことは確かです。なぜ主はマリヤを選んだのか?2つの主な理由があります。
まず1つは彼女が処女だったからです。処女が身ごもることはあり得ないことなのにマリヤの場合あり得ないことが起こりました。聖霊によって身ごもったからです。聖霊によってとは人間ではなく神の種によって身ごもったことです。だから生まれてくる子は神の種によって出来た子だから神の御子です。人間としてのイエス様の父はヨセフですが、イエス様の本当の父は天の神様でありイエス様は神の御子です。「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。」「いと高き方」とは天の神様です。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれてくる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」イエス様は事実、神の御子であり、また人々もイエス様を神の御子と呼ぶために聖霊によって身ごもった処女マリヤから生まれました。彼女が処女であったことに神のご計画があったのです。
またもう1つはダビデの家系であるヨセフの許嫁だったからです。旧約聖書のダビデ王の時代にメシヤつまり救い主はダビデの子孫から生まれ、メシヤがイスラエルの王となり、その国は永遠に続くという預言が預言者ナタンを通してダビデに与えられました。それ以来、イスラエル人はその預言を信じてダビデの子孫が治める南王国を大切に守りました。またバビロン帝国の侵略によって南王国が滅亡し、ダビデ王朝が途絶えても、イスラエル人のうちにダビデの子孫からメシヤが現れるという信仰は続きました。それはメシヤ思想と言われるようになりました。だからイエス様が現れて来た時、ダビデの子孫であることはイエス様がメシヤつまりキリストであることの証拠でした。「また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」これはヨセフの許嫁のマリヤが産むイエス様はダビデの子孫になるから、イエス様はイスラエルの王となるメシヤであることを表わします。
「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」メシヤが治める国は永遠に続きます。この世に永遠に続く国など、どこを探してもありません。だからメシヤが治める国とはこの世の国ではなく、神の国です。つまり、ダビデの子孫であるヨセフの許嫁のマリヤが選ばれたのはイエス様がダビデの子孫となってナタン預言が成就し、イエス様が永遠に続く神の国の王となるためでした。
ところで、以上の理由のほかにも、彼女が選ばれた理由があります。それは彼女自身がみことばと御霊によってへりくだって自分を主に明け渡すことができたことです。けれども初めから主の前にへりくだっていたわけではありません。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と声をかけられた時、彼女はひどく戸惑い、考え込みました。その後も、御使いが「恐れることはありません」から始めて「あなたは身ごもって男の子を産む」とか「その名をイエスとしなさい」――――などと思いも及ばないばかり言われてマリヤは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えました。そのように言って当然です。けれども最後に聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおうとか、親類のエリサベツが不妊と言われていたのに男の子を宿して6ケ月になるとか、「神にとって不可能なことは何もない」というみことばを聞いてスンナリ信じ、主の前にへりくだり従うことができました。どうして劇的に変えられたのか?御霊が彼女に働いたからです。彼女がみことばと御霊によって変えられたことが主に選ばれた理由なのです。
ところで、彼女がみことばと御霊によって変えられて主のご計画のために用いられたのなら、みことばと御霊によってイエス様を信じている私達も主のご計画のために用いられます。私達に御使いは来ていなくても、聖書があり、御霊は私達にも働いているからです。主のご計画のために用いられるとはどんなことか?子供を産むことは神が彼女に与えた賜物でした。「おことば通り、この身になるように」とは“神のご計画通りにその賜物を用いてください”とへりくだって自分を主に明け渡すことでした。それが主のご計画のために用いられることです。私達も私達なりに神から賜物や能力が与えられています。自分には何の賜物も能力もないということはあり得ません。
マリヤを見れば、特別な技能や才能ではなく子供を産んで育てるという女性としてごく普通の賜物が用いられました。ごく当たり前の賜物やごく普通の能力を主は用います。当たり前過ぎて私達が見向きもしないものや私達が捨ててしまいたいと思うものを主は用いることがあります。さらに私達は生きているだけで用いられます。主なる神にとって私達1人1人は神のご計画を進めるための尊い器なのです。だから大事なことは“ご計画通りに自分の賜物や存在を用いて下さい”と言ってへりくだって自分を主に明け渡すことなのです。それができるように私達に、聖書を通してみことばが与えられ、キリスト信仰によって御霊が働いているのです。