ルカ2:1-20、創世記3:15

“幼子イエスを産むマリヤ”  内田耕治師

 

聖書のテーマは神から離れて行った人間を神のもとに立ち返らせることです。人間が神から離れて行ったことは創世記3章に出て来ます。最初の人間は初め神とともに歩んでいましたが蛇を背後で操る悪魔の誘惑によって神の命令に背いて神が食べてはならないと命じた善悪の知識の木から取って食べてしまい、エデンの園から追い出されて神から離れて行きました。彼らが人類の代表として神から離れて行ったことにより、その後の人類すべてが神に背を向けて歩むようになりました。けれども、私達が背を向けていても反発していても神は私達を愛し哀れんで、そんな私達を神のもとに立ち返らせる1人の救い主を紹介しています。その救い主を通してのみ私達は神に立ち返ることができます。それが神の御子キリストなのです。その救い主が与えられることは最初の人間が罪を犯して神から離れた直後に神があらかじめ預言しました。

創世記3:15「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」神は人間を誘惑した悪魔を「おまえ」と呼びました。「おまえの子孫」も悪魔のことです。悪魔は神の前には何の力もない存在ですが、人間を神から引き離そうとしています。「女」や「女の子孫」はそんな中で神の側につく人々のことです。そして「敵意」とは神の側につく人々と悪魔の間にある緊張関係です。積極的に主に従おうとすると悪魔との戦いがあるのです。では「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」とは何か?これは女の子孫である「彼」がかかとを打たれながらも悪魔の頭を打つことによって悪魔の支配下にある人々を解放して神のもとに立ち返らせることです。だから「彼」とは当然、神の御子キリストです。キリストは2000年前、人類の罪の身代わりとして十字架にかかることでそれを成し遂げてくださいました。

ところで「彼」と言われた神の御子キリストは女の子孫として生まれます。だからキリストは1人の女から生まれました。その女がヨセフの許嫁だったマリヤです。マリヤは神の御子キリストを産むという主のご計画のために選ばれた器です。彼女が選ばれたことはルカ伝の1章でマリヤの所に急に御使いガブリエルが現れて受胎告知をしたことで明らかです。主のご計画のために選ばれたとは神の側に立ったことです。彼女は「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く」の通りに悪魔との熾烈な緊張関係に入れられ、ヨセフとともにそれを乗り越えて神の御子を産むことになりました。まず、まだヨセフと一緒にならないうちにマリヤは聖霊によって身ごもり、彼女の妊娠をヨセフが知った時から緊張関係が始まりました。なぜならヨセフは初めマリヤの妊娠が神のご計画だとわからず疑いの目を向けたからです。しばらくヨセフと難しい時があったと考えられます。

けれども、彼は優しい人でもあったので穏便に事を解決しようとして内密にマリヤを去らせることを考えました。そんな時、ヨセフは夢の中で“マリヤお腹の中の子は聖霊によるものである。マリヤは救い主を産もうとしている”という御使いの知らせを聞いて彼女を信じて受け入れました。もしヨセフが神のみ告げを受け入れないでマリヤを疑い続けるならば悪魔の思う壺であり、またもしマリヤがヨセフに疑われ続けて挫けてしまえば悪魔の思う壺でした。けれども、彼らはその試練を乗り越えることができました。

次にヨセフがマリヤを受け入れたとしても、ナザレの町の人々はそうは行きません。マリヤをさらし者にしたくなかったとヨセフが思ったように当時は今と違ってそういうことには非常に厳しい社会でした。だからマリヤの妊娠が露わになるに従って人々の厳しい目がマリヤに向けられました。今では考えられないような社会的制裁が当時にはありました。それは試練でしたが、主は“試練とともに脱出の道を備えてくださる”お方なので彼らのために脱出の道が備えられました。それがヨセフとともにナザレから遠く離れたベツレヘムに旅をすることでした。この旅はローマの皇帝アウグストが出した住民登録の命令によるもので、ユダヤ人はその時自分が住んでいる所ではなく自分の出身部族がいる所で登録をする必要がありました。それでヨセフはユダヤのベツレヘムに出かけました。北のガリラヤ地方のナザレから100キロ以上離れた南のユダヤ地方のベツレヘムに行くのは大変なことです。流産の危険がありましたから彼らにとってその旅は脱出の道であるとともに試練の道でもありました。けれども、彼らは主の導きの中でその試練を無事、乗り越えることができました。最後にベツレヘムに着いてからも試練がありました。それはどこの宿屋も満員で泊まる所がなかったことです。しかもマリヤのお腹の子は産まれかかっていました。けれども、家畜小屋が備えられていて彼らは意を決してそこに入り最後の試練を乗り越え、救い主を産むことができました。

次に救い主を産むという使命を成し遂げマリヤとヨセフとに神から祝福が与えられました。主はベツレヘム近郊にいた羊飼いを用いて彼らに主の祝福を伝えさせました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどり児を見つけます。それがあなたがたのためのしるしです。」これは羊飼い達が幼子イエスをベツレヘムで見つける手がかりとなるみことばでしたが、それとともに、救い主の誕生を喜び、大変な苦労をしてベツレヘムに来て家畜小屋で救い主を産んだマリヤとヨセフの労をねぎらい祝福するみことばです。今の私達も毎年、天の神様と同じように救い主の誕生を喜び、ベツレヘムまで行って家畜小屋でイエス様を産んだマリヤとヨセフの働きを覚えてお祝いしています。

また天の軍勢が現れて「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」と賛美しました。これは生まれたイエス様に対する祝福です。なぜなら、神の御子キリストが悪魔の頭を打つことで神の栄光が現れ、またみこころにかなう人々がキリストによって悪魔から解放されて平和を得ることができるようになったからです。この祝福を今の私達もイエスキリストに対してささげています。神に背を向けている私達が神に立ち返ることは神の御子イエスキリストによって成し遂げられるのです。