ルカ2:21-38,1ヨハネ1:8-10

“幼子イエスへの希望”  内田耕治師

 

どんな民族でもいつの時代でも子供が生まれると、宗教的な儀式をするものです。日本の多くの人達は宮参りをします。キリスト者は教会で献児式をします。教派によっては幼児洗礼があります。ユダヤ人は子供が生まれたら8日目に割礼を施すことが定められていたので、ヨセフとマリヤは幼子にそのようにしてイエスと名づけました。また40日が満ちたら律法に従って両親は長男であるイエス様を主にささげるためにエルサレムの神殿に連れて行きました。また母親のきよめのために律法に従って神殿でささげ物をしました。ヨセフとマリヤは貧しかったので鳩をささげました。

そこで見ず知らずの2人の老人が両親に連れて来られた幼子イエスに出会ってその子がどういう者なのかわかっているような祝福をしました。その2人とはシメオンとアンナです。彼らはその人生の終わり頃にメシヤに出会うという栄誉にあずかることができました。シメオンは正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。それは外国の勢力を追い出して屈辱を拭い去り、国を再建し、栄光を取り戻すことでした。しかも彼は聖霊によって「主のキリストを見るまでは決して死を見ることがない」というみ告げを受けていました。

一方、アンナは処女の時代の後7年間夫とともに暮らしてやもめになり、84才になっていた彼女は長く孤独な生き方をしていましたが、孤独に負けないで祈りに徹した非常に信仰深い人でした。彼女もメシヤを待ち望んでいました。そんな2人がエルサレムの神殿でついに幼子イエスに出会いました。2人はどんな反応をしたのか?まずシメオンは幼子イエスを見てその子がメシヤだとわかり近づいて“かわいいお子さんですね。ちょっと抱かせてくれませんか”と言ってイエス様を抱き、「主よ。今こそあなたは、おことば通り、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。」と急に語り出しました。一方、アンナも神殿に来た幼子イエスがメシヤであることが分かったようでエルサレムの贖いを待ち望んでいた人々に幼子イエスのことを語りました。「贖い」とは解放です。メシヤが現れて、外国の勢力に支配されたイスラエルを解放して民族の誇りを取り戻すことです。

ところで、2人の中で特にシメオンが語ったことはイエス様がどんな救い主であり、どんなことになり、イエス様を信じる者はどうなるかを教えてくれます。「私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民のために備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」シメオンはイスラエルの栄光だけを考えていました。けれども、彼の口から出て来たことは「万民」のためとか「異邦人」のためなど全人類に向けられた救いでした。それはまさにシメオンの口を通して主が語られた預言のことばでした。また全人類の救い主となるためにイエス様が十字架にかかることを間接的に語っています。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また人々の反対にあうしるしに定められる」イエス様に反対する者達が現れて、イエス様は迫害され、最終的に十字架にかけられることです。福音書に描かれたイエス様の公生涯はまさにそういう歩みです。「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります」の「あなた」とは母マリヤのことです。母マリヤはイエス様の十字架に立ち会いました。これは息子のイエス様が十字架にかけられるのを見てマリヤが心を剣で刺し貫れてショックを受けることです。これもイエス様の十字架を預言しています。

シメオンの預言はイエス様の十字架を信じる私達の信仰についても語っています。「それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです」これは御子の十字架が人の心にある思いを明らかにすることです。では、私達の心にある思いとは何か?この箇所には何も書いてありませんが、聖書の他の箇所から考えると、それは私達の罪のことです。みことばは“イエス様が私達の罪のために十字架にかかられた、私達の罪のために死なれた”と語っています。だから素直にそういうみことばを受け入れるとは自分の罪を認めることです。自分の罪を認めることによって私達は救いを受けることができます。もし十字架を前にして素直に自分の罪を認めないとしても、みことばをよく読めばやはり罪が明らかにされます。第一ヨハネ1:8「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」“自分には罪はない”と言い張るなら、それは“自分に罪はない”という大嘘をつくことです。それこそ罪です。

10節「もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」“自分は罪なんて犯していない、罪のことを言う神は嘘つきだ”と言うことは罪を教える神のことばを否定する不遜の罪です。例えて言うと、御子の十字架は私達の心の思いを写し出す鏡です。十字架の鏡によって私達の心にあるすべての罪が明らかにされるのです。私達はそれから逃げることはできません、ジタバタすることはできません。明らかにされた罪を認めるほかはないのです。そして罪を認めるならば赦しがあります。

第一ヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」自分の罪を主の前に認めたら、罪の赦しが与えられる。これが私達の立つ信仰です。この信仰以外の信仰はあり得ません。毎日1時間お祈りしたら、罪は赦される。それは間違いです。毎日良い行いをしたら、罪は赦される。それは間違いです。教会の奉仕をいっぱいしたら、罪は赦される。それも間違いです。私達が主の前に自分の罪を認めたら、何もしなくてもただ十字架で流された御子の血によって赦されるのです。それが私達の立っている信仰なのです。今年はその信仰に立って歩んできましたが、

来年もその信仰にしっかり立って歩んでいきましょう。お祈りします。