創世記11:1-32

“救い主を生み出すセムの子孫”  内田耕治師

 

先週はアダム・エバからノアまでの罪や悪が蔓延る暗い世界でエノシュやエノクやノアなど救い主を予告した人々がいたことをお話ししました。

今日はその続編で洪水後の世界で救い主を予告したセムの子孫のことをお話しします。聖書の箇所は読んでいただいたところだけでなく、創世記8章の後半から12章の初めまでという非常に長い箇所になります。神との契約があり、預言があり、民族表があり、バベルの塔の事件があり、系図がありバラエティーに富んでいます。細かく見て行くと、いろんなことが出て来ますが、今日も先週と同じように救い主というただ1つの視点で見て行きたいと思います。

さて大洪水によって暴虐に満ち堕落し切った人類は滅ぼされてノアとその家族から人類は再出発しました。けれども人間が神から離れ神に背を向けていることは同じでした。そのことは8章の終わりで洪水が終わってノアが箱舟を出て主に感謝のささげ物をしたときに主が語ったことに表れています。主はノアに対して創世記8:21で「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを滅ぼすことは決してしない。」と語りました。この主のみことばはその後で虹の契約となりましたが、人の心が思い図ることは幼いときから悪であると主が述べたように、人類は再出発をしても神に背を向けて悪に傾きやすいことは洪水以前と同じでした。洪水後の人類もやはり神に立ち返る必要がある罪人です。だから主なる神は洪水後も創世記3:15の預言に従って神の側について悪魔に対抗する女の子孫を備え、やがてその子孫から救い主を生み出し、その救い主を通して人類を神に立ち返らせるご計画を進めていました。

またそのご計画はノアから始まるある一筋の子孫を通して進められました。その子孫とはセム、ハム、ヤフェテという3人の息子のうちのセムから始まる家系でした。そのことは9章の終わりに出て来るノアの不思議な預言に示されています。洪水後ノアは農夫になり、ぶどう畑を作り、ぶどう酒を作るようになりましたが、ある時ノアはぶどう酒を飲み過ぎて酔って天幕の中で裸になって醜態を晒していました。それをまずカナンの父になるハムは見て、外にいた2人の兄弟に“お父さんが恥ずかしい恰好で寝ているよ”と告げました。それを聞いたセムとヤフェテは上着を取り、自分達の肩にかけて後ろ向きに歩いて父の裸を覆い隠しました。ノアは酔いから覚めると、自分の醜態を人に告げたハムに対して「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」と不思議なことにハムではなく、その子のカナンをのろいました。

一方、セムとヤフェテに対して「ほむべきかな、セムの神、主。カナンは彼らのしもべとなるように。神がヤフェテを広げ、セムの天幕に住むようになれ。カナンは彼らのしもべとなるように。」と言いました。「ほむべきかな、セムの神、主。」これはセムの子孫の繁栄ではなく、セムの子孫から救い主が生まれ、その救い主を通して人類は神に立ち返り、セムの神、主の御名が崇められることです。「ヤフェテがセムの天幕に住むようになれ」とは、ヤフェテが増え広がりながらセムの神を崇めるようになることであり、また「カナンが彼らのしもべになるように」とは、セムやハムに従うことによってセムの神を崇めるようになることです。

そのことは10章の民族表や11章の系図に表れています。まず10章は洪水後にセム、ハム、ヤフェテから現れた諸民族や諸国民が描かれています。ヤフェテの子孫についてはあまり記されていませんが、セムとハムの子孫についてはたくさんの名前が書いてあります。特にハムの子孫は詳しく書いてあります。ハムの子孫から見て行きましょう。

ハムの子孫に二ムロデという人物が出て来ます。彼は「地上で最初の勇士となった。(前の訳だと権力者となったですが)彼は主の前に力ある狩人であった。それゆえ“主の前に力ある狩人ニムロデのように”と言われるようになった。」と書いてあります。つまりニムロデは当時の世界で勇士として讃えられる伝説的な存在になりました。続いて「彼の王国の始まりは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。その地から彼はアッシュルに進出し、二ネべ、レホボテ・イル、カルフ、およびニネべとカルフの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。」と書いてあります。ハムの子孫はニムロデという偉大な権力者のおかげでたくさんの町を建設し、広大な領土を持つ強大な王国を打ち立て、この世的には成功して力を誇っていました。ハムの子孫はセムやヤフェテのしもべになるどころか、この世的には世界を支配するものになりました。

一方、セムの子孫はニムロデのような権力者は現れず、強大な王国も造らず、平凡な歩みをしていましたが、セムの子孫にエベルという人物が現れました。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であり」と書いてあるように10章はエベルに焦点を当てています。どうしてか?25節に「エベルには2人の息子が生まれ、1人の名はぺレグであった。その時代に地が分けられたからである。」と興味深いことが書いてあります。聖書の民には何か歴史的な出来事を人の名前に反映させることがありますが、ぺレグは“分ける”という言葉から来た名前で、それはその時代に「地が分けられた」とあるように何か大変なことが起こったことを反映しています。では「地が分けられた」とは何か?地震か?そうではなくて人々が分けられたことです。これは何か?バベルの塔の事件によって1つだった話し言葉が混乱して互いに通じなくなり人々は分かれていろんな言葉が生まれたことを表わします。バベルの塔は聖書の順序では11章前半にありますが、年代的には10章のエベルの時代に起ったことなのです。

バベルはハムの子孫であるニムロデが造った町ですが、町がそんなことになり、人々が散らされても、ニムロデは気にしないで、読みましたようにどんどん他の地域に進出して大きな町を建てて大帝国を築き上げました。一方、セムの子孫であるエベルは、バベルの町と何らかの関わりがあったと考えられますが、町がそんなことになり人々がバラバラに散らされたことに大きな衝撃を受けて息子にぺレグという名前をつけました。どうしてか?エベルは自分達の名を上げるために無理して高い塔を建てようとした人間の醜さを心に留めたからです。だから息子にぺレグという名前をつけました。それは広島の原爆ドームと似ています。どうしてあの廃墟を保存して残すのか?それは忘れやすい人間がその過ちを記憶にとどめ、人間の醜さを心に留めるためですね。

ぺレグという名前も同じように忘れやすい自分達が神に背を向けて自分達の繁栄ばかりを求める人間の醜さを記憶にとどめるためにつけました。日本人なら「地が分けられた」なんて縁起の悪い名前をつけない傾向がありますが、聖書では縁起が悪くても都合が悪くても人間の醜さを忘れないで記憶にとどめるためにむしろそうするのです。それは聖書の罪の教えと基本的に似ています。罪の教えは私達にとってあまり嬉しくないことです。罪のことばかり話されると私達は気が滅入ってしまいます。けれども私達は罪のことをよく話します。どうしてか?それはまず罪がわからなければ救いもわからないからです。生まれながらの人間は自分が罪ある者であることを知らないし、また放っておいて自然に罪に気づくこともありません。それは教えられなければわからないものです。だから聖書には、罪の教えがあり、私達はそれを繰り返して教えることによって私達が神に背を向けた状態にあり、救い主が必要なことを気づかせてくれるのです。そして聖書は私達に必要な救い主を送ってくださることも教えています。その救い主がイエスキリストですが、次の11章の系図はイエスキリストの到来を予告しています。なぜならセムから始まる系図は最後にアブラムつまりアブラハムにたどり着き、アブラハムはご存知のようにイエスキリストの先祖だからです。それで11章をご覧ください。

11章の系図は5章の系図とある程度似ています。5章の系図は“だれが何年生きて、だれを生んで、その後、何年生きて最後は死んだ”という形式で書かれています。“死んだ、死んだ、死んだ”と死が続くことは洪水前の暴虐に満ち堕落し切った暗い世界を表していると先週お話ししました。

一方、11章の系図も“だれが何年生きて、だれを生んで、その後、何年生きた”という所までは5章と同じです。けれども最後の“死んだ”という所がありません。いつの時代でも人は死にますが、敢えて“死んだ”の一言を書かないことで11章は5章と比べて明るい印象を与えていますが、それは将来の希望を表しています。では、その希望とは何か? アブラムつまりアブラハムが生まれることです。11章の終わりにアブラムという名前が急にたくさん出て来ることに注目してください。それはアブラムつまりアブラハムの登場に希望を寄せていることを表わします。

またもう1つ違いがあります。5章は系図の合間にエノシュやエノクやノアなどの証しのある人物を紹介していますが、11章はだれも紹介しないでひたすらアブラハムの登場を待ち望むような書き方をしています。どうしてか?アブラハムは神から祝福の約束を受ける人物だからです。12:1-3をご覧ください。(朗読)このようにアブラムつまりアブラハムは神から祝福を受ける人物だから11章の系図はひたすらアブラハムの登場を待ち望むような書き方をしています。そしてアブラハムの子孫としてイエスキリストは生まれ、キリストが全人類を祝福する救い主となります。12:3に「――地のすべての部族はあなたによって祝福される。」とあります。セムの子孫として生まれるイエス様はハムの子孫もヤフェテの子孫も祝福することができます。ヤフェテの子孫は霊的なことではイエスキリストの天幕に入ることで祝福を受けます。またハムの子孫は霊的なことではイエスキリストのしもべになることで祝福を受けます。そしてイエスキリストによって「ほむべきかなセムの神、主」という預言は成就します。

今年もクリスマスを迎えようとしています。2000年前のイエス様の誕生を祝おうとしています。けれども、イエス様の誕生はそれよりももっと昔から神のご計画のうちに予告されていました。だから、イエス様はまさに久しく待ちにし救い主なのです。今年も久しく待ちにし救い主の誕生をお祝いしましょう。