マタイ4:8-11
“サタンではなく神である主を礼拝しなさい” 内田耕治師
3回目の試みでイエス様は非常に高い山に連れて行かれました。山の名前がないので、どの山かわかりませんが、その高さによってこの世のすべての王国とその栄華を見ることが出来る所でした。悪魔は「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」と言いました。「ひれ伏して私を拝め」悪魔はこれまで自分の意図を隠してパンによって試みたり、みことばによって試みたりしてイエス様を自分に引き寄せようとしていました。けれども、ここではもろに自分の意図を現わして“私を拝め”と語りかけてきました。
それに対してイエス様は「下がれ、サタン。“あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい”と書いてある。」と答えました。これまでと同じようにイエス様は「書いてある」と旧約聖書のみことばを引用しました。ここは申命記6:13からの引用です。イスラエル人がこれから入る約束の地にいた諸民族にはそれぞれ偶像の神が存在し、彼らがボヤボヤしていると偶像の神々に関心が移り、イスラエルの神、主を忘れてしまう可能性がありました。だから「あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい」と語りました。
ところで、イエス様は申命記6:13の「あなたの神、主を恐れ」を「あなたの神である主を礼拝しなさい」と言い換えました。どうしてか?物言わぬ偶像の神々は“自分を拝め”などと言うことはありません。興味を抱かせて拝むようにさせるだけです。けれども、悪魔はイエス様に対して積極的に“自分を拝め”と言いました。だからイエス様はそれに対抗するために“恐れる”よりもより積極的な“礼拝する”という言葉に言い換えたと考えられます。“拝む”とか礼拝する”とはどんなことか?それは拝む相手を自分の神とし、自分をその僕(しもべ)とすることです。私達は主を礼拝することで主を自分の神とし、また自分は主の僕だとしています。ところで僕になれば、主人の言いなりになり従わなくてはなりません。だから、ここでイエス様が悪魔を拝めば、悪魔を自分の神としてその僕になり悪魔の支配下に入ります。すなわち悪魔はイエス様を自分の支配下に置いてイエス様が救い主の働きができないようにすることを目論んでいました。
では、救い主の働きができないとはどんなことか?それはイエス様がこの世の王国や栄華を自分のものにすることでした。それは昔の大帝国の王様や今の独裁者が欲しがるものですが、ヨハネ18:36「わたしの国はこの世のものではありません。」イエス様はこの世の王国や栄華を得るためにこの世に来られたのではありません。イエス様は人類の罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでよみがえり、救いの道を開くためにこの世に来られました。この世の王国や栄華に捨てられる方向を目指していました。それが神のご計画でした。だから、もし悪魔の誘いによってこの世の王国や栄華を求めるならイエス様は目指すものから離れてしまい、神のご計画を成し遂げることが出来なくなります。だからイエス様は「下がれ、サタン」と言って悪魔の誘いを退けました。退けたら御使いが近づいてきてイエス様に仕え、イエス様は神のみわざを始めることができました。
ところで、このような悪魔の誘いはイエス様だけでなく、私達も受けています。私達に対する神のご計画とは、私達が主とともに歩んで神のみこころに従い、神の栄光を表すことです。けれども、悪魔は私達を神から引き離して、神の栄光よりもこの世の王国や栄華を求めさせ、私達の信仰生活をダメにしたり、教会から離れさせたりします。油断はできません。ただし私達はイエス様の場合と大きな違いがあります。イエス様の場合は「もしひれ伏して私を拝むならーーー」という悪魔の語りかけがありましたが、私達の場合そのような明確な悪魔の語りかけはほとんどありません。明確な語りかけはないにもかかわらず、気がついてみたら結果として“悪魔にしてやられた”ということが起こります。すなわち悪魔の誘いは私達が気づかないように働くのです。
どうしてか? その大きな理由はこの世の王国や栄華を求めることは悪いことではなく、むしろ良いことだからです。
あるルーテル教会の年配の牧師から“教会に有能な青年がいると、だれかが教会のような狭い所にいないで広い社会に出て、社会にもっと貢献しなさいと声をかけて、若い人達が取られてしまい教会は成長しない”と聞いたことがあります。“教会のような狭い所”は、教会にいる者としては少しカチンと来ますが、社会に貢献することは悪いことではありません。むしろ良いことです。そういう声を一概に悪魔の語りかけと言うことは出来ません。それはごく普通のことです。けれども、そのために夢中で学び、夢中で仕事をし、社会に貢献してきたら、いつの間にやら信仰生活が疎かになったとか、主から離れてしまったとか、問題を抱えるようになったということが起こります。自分では悪魔に語りかけられて悪魔を拝んだなんてことはまったくないのに、結果として悪魔の思う壺にはまっていたということが起こります。それは明確な悪魔の語りかけがなくても、私達はイエス様と同じようにこの世の王国とその栄華は見ることによって誘惑とは思わずに誘惑を受けているからです。今はテレビ、インターネット、SNSなどメディアが発達しているので高い山に登らなくてもどんどんこの世の王国や栄華を見ています。いろんなものを見たり聞いたりして驚き、楽しみ、興味を持ちますが、それは別に悪いことではなく、むしろ良いことです。
けれども、もしこの世の王国や栄華を絶対的な善とするなら、どうか? それは真の神を横に置いて、この世の王国や栄華を神とすることです。それは偶像礼拝です。それは悪魔を拝むことです。
この世の王国や栄華には必ず影があります。私の実家は三重県の四日市市ですが、四日市は石油化学コンビナートがあり、かつてそれは繁栄の象徴でしたが、それとともに大気汚染という公害問題で有名でした。公害問題を通して私は若い時から繁栄には影の部分も伴うという問題意識を持つようになりました。
皆さんもこの世の繁栄に伴う影の部分をよく御存知だと思います。それなのに影の部分にあえて目を閉じて、この世の繁栄は絶対的な善だと言い張り、繁栄だけを求めるならば。極端な言い方ですが、それは悪魔を崇めているということです。けれども、罪ある私達はそうなる危険性があります。私達の罪とは、悪魔を崇めても自分さえ豊かになれば、どうでもいいと思う。自己中心的な性質の悪いものです。だからこそ、私達には悪魔を崇めることは止めて「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」というみことばが与えられています。
礼拝するとは、礼拝するお方に仕えることです。そしてどんなお方に仕えるかで私達の歩みは全然異なります。神に仕えるか、それとも悪魔に仕えるかで大きな違いがあります。御子イエスキリストをこの世に遣わされた神は人間の罪を示し、その罪からの救いを与え、すべてのものをさばくお方です。何が良いことか何が正しいことか何が愛なのかを明らかにするお方です。私達がそういう神を礼拝し、仕えるならば、罪ある私達も少しずつ何が良いことで、神に喜ばれ、何が神のみこころかを見分けることが出来るようになります。私達はそのために続けて主を礼拝しています。
けれども、この世の繁栄を絶対的な善だと言い切り、それをあたかも神のようにしてしまうと、影の部分が目の前にありながら見ようとしない者になってしまいます。それは偶像礼拝です。だからイエス様は「下がれ。サタン。あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。」と言われたのです。私達はこの世の繁栄から益を受けるだけでなく、その影の部分と戦い、悪魔がその影を用いて私達の人生や社会を狂わせることがないようにする必要があります。そのために私達は神である主を崇め礼拝するのです。イエス様の時と同じように、悪魔は私達にこの世の繁栄を見せて私達を幻惑し“これがあなたの神だ”と語りかけます。けれども、私達はイエス様にならって「下がれ、サタン。私は神である主を礼拝し、主にのみ仕える」と主張するのです。それが、私達に是非、必要な信仰なのです。