使徒27:21-44
“心低くして見えてくる神の愛” 内田耕治師
パウロは囚人として船でローマへ護送されました。船には全員で276人いました。たまたま同じ船に乗り合わせただけなのでパウロのことを一部の人達以外は全然知らないし、パウロもほとんどの人達を知りません。また同行したルカやアリスタルコ以外にイエスキリストを信じる者はいなくて未信者に囲まれていました。けれども、主は不思議な導きを通して同船する人達がパウロの存在を知り、その価値を認めるようになさいました。
イタリヤに行くアレクサンドリヤの船は向かい風で思うように進まず、だいぶ遅れてやっとの思いでクレタ島のラサヤの町に近い“良い港”と呼ばれる所に着きました。その時はもう断食の日が過ぎた11月になっていました。そこは冬を過ごすには適していないので、船長や船主はそこから少し先で同じクレタ島のフィニクスに行くことを百人隊長に話しました。その時、パウロは船乗りではなくても伝道旅行で地中海を船で何度も渡ったことがあり、断食の日が過ぎた時期の航海は危険だとよく知っていました。だから言う権限はなかったですが、警告しました。百人隊長ユリウスはパウロの意見を聞きましたが、やはり専門家である船長や船主の意見を信用しました。それで船はフィニクスの港に出かけました。ところが急にユーラクロンという暴風が吹いて来て船は巻き込まれて漂流し、大変な試練に放り込まれました。初め何とか努力してその試練を乗り越えようとしていました。けれども、太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が吹き荒れて船の人達は“もう助からないのではないか”と希望を失いつつありました。また長い間、何も食べない状態が続きました。
けれども、そんなとき、パウロが話し出して、船の人々はパウロの存在に目が開かれました。
パウロはカエサルに上訴した自分がローマに行ってカエサルの前に立つのは神のご計画だと確信していました。また「恐れることはない。パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立つ」というみ使いの声も聞きました。だから「いのちを失う人は1人もいない、失われるのは船だけだ」と語りました。また「見なさい。神は同船している人達を、みなあなたに与えておられます」という御声も聞いてパウロは同船している人達を主が自分に任された人達だと思っていました。だから25節の「皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになさるのです。私達は必ず、どこかに島に打ち上げられます」という励ましの言葉をかけました。
さらに漂流して14日目パウロが水夫達の逃亡を見破りました。真夜中に水夫達は水深が少しずつ浅くなってきたのに気づきました。陸地に近づくのは助かる可能性が出て来たことと同時にそれは船が暗礁に乗り上げて座礁し、破壊されて沈没する危険性が迫ったことです。もしそうなったら全員おぼれ死ぬことになります。水夫達はその危険性をよく知っていたので自分達だけが助かろうとして船首から錨を降ろすように見せかけて小舟を降ろして逃げようとしていました。でも、パウロは彼らが何をするつもりかすぐに見抜き、百人隊長に「あの人達が船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません」と言って兵士達に綱を切らせて小舟を捨てさせ水夫達の逃亡を防ぎました。百人隊長は、警告通りにユーラクロンに巻き込まれて船が漂流したことや水夫達の逃亡を見破ったことで“このパウロは頼りになる奴だ”と思ったに違いありません。パウロの豊富な船旅の経験は生かされてパウロの価値を、百人隊長を始めとして多くの人達が認めるようになりました。そしてその価値が認められたからこそ夜が明けたころ、パウロの勧めで一同は14日ぶりに食事をしました。彼はパンを取り、神に感謝の祈りをささげてから裂いて食べ始めて一同も食べて元気を取り戻しました。この食事会と励ましの言葉は人々がパウロの価値が認められたからこそ出来たことでした。
さらにパウロの価値が認められたことを物語るもう1つの出来事が起こりました。当時、囚人を見張る兵士は、もし囚人を逃がしてしまったら死をもって償いをさせられることがよくありました。この時、夜が明けてから砂浜がある入江が目に留まったので船は錨を切って海に捨て、船首の帆を上げて砂浜に向かって進みました。ところが船は浅瀬に乗り上げ、座礁したので壊れ始めました。もう陸地は近いですから泳いでいくことが出来ます。それは囚人にしてみれば逃げるチャンスです。でも兵士達にとって囚人が逃ることは自分達の死です。だから泳いで逃げないように殺してしまおうとしました。けれども、それを知った百人隊長は“これはマズい、パウロを助けなくては”と思って、兵士達の計画を止めさせました。なぜそうしたのか?初めからパウロに対して好意的だったこともありますが、それだけではなく、パウロの価値を十分に認めていたからこそ“是非、助けなくては”という思いになりました。船の漂流という異常事態を通して短期間のうちに見ず知らずの人達にパウロの存在が知られ、その価値が認められて、彼の能力や賜物が大いに生かされて神のみわざがなされたのです。
ところで、私達も初めのパウロと同じように普段はその価値を知られていないのが現実です。けれども、私達の存在が知られ、その価値が認められる時がやがて訪れます。パウロのローマへの船旅が、ユーラクロンに巻き込まれて漂流することなく、順風満帆で何の問題もなく進んでいたら、百人隊長も船長も船主も同船者達もパウロの存在やその価値に気づかなかったですが、船がユーラクロンに巻き込まれて漂流し、人々は生きるか死ぬかの大変な試練を通らされ、自分達の無力を思い知らされ、心が低くされたことでパウロの存在に目が開かれ、その価値を認めるようになりました。
それと同じように、私達も主の導きによって人々の心が低くされることによってその存在が知られ、その価値が認められるようになります。大変な試練が来るのか、大きな問題が起こるのか、行き詰まりを感じるのか、弱さを示されるのか、それは様々ですが、それによって人々の心が低くされることが私達の存在を知り、その価値を認めるようになるカギなのです。では、私達の価値とは何か?パウロと同じようにイエスキリストを信じて神の愛を知っていることです。「しかし、私達がまだ罪人であったとき、キリストが私達のために死なれたことによって、神は私達に対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)」神の愛を知っている。これこそ、他の人達にはない私達の価値なのです。周囲の人々が心低くして神の愛に関心を向けるようになることを心から願います。