マタイ26:1-25
“イエスキリスト受難の序曲” 内田耕治師
神は永遠に生きる霊的いのちを与えるために御子イエスキリストをこの世に遣わしました。それが神の愛です。その愛を受け入れるかどうかは人それぞれですが、イエス様はどんな人にもその愛を与えようとしました。それはイエス様が受難に導かれるとき、裏切ろうとしていたユダへの対応に表れています。
イエス様の受難は神のご計画でした。イエス様ご自身もそのことを自分に与えられた神のご計画だと自覚し、それに従おうとしていました。
また、イエス様が受難することはその後のイエス様に香油を注いだ出来事にも表れています。弟子達は「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人達に施しが出来たのに」と憤慨しましたが、イエス様は「――――この人はこの香油をわたしの体に注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」と言いました。これは要するにイエス様の十字架の預言です。
またイエス様が十字架にかかるために、罪のないイエス様を策略によって捕え、十字架にかけようとする人達が存在しました。その人達が大祭司カヤパを始めとする祭司長達や長老達です。彼らは「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と言って過越の祭りの間は事を起こさないで、それが終わった後、密かにイエス様を亡き者にしようとしていました。けれども、過越の祭りの間にイエス様が過越の子羊として十字架にかけられることが神のご計画でした。そして不思議なことにそのご計画のためにユダが用いられました。
ユダは密かに祭司長達と通じていました。彼は祭司長達のところに行って“自分がイエス様を祭司長達に引き渡したら何がもらえるのか”と言って取引をすると、祭司長達は彼に銀貨30枚を支払いました。それで彼はそのときからイエス様を引き渡す機会を狙うようになりました。どうしてユダは裏切ろうとしたのか?聖書には書かれていませんが、それにはいろんな理由があります。彼は初めからイエス様を売るつもりで潜り込んだスパイだったのではありません。彼もイエス様に何かを期待して弟子になりました。また会計の仕事を任されましたからイエス様にも他の弟子達にも信頼されていました。しかし、何が彼の期待したことだったのかは聖書に書かれていませんが、ユダはだんだんイエス様は自分の期待とは異なるお方だと気づいて来ました。また金入れを預かるうちに誘惑されて少しずつ財布から盗むようになり、ついにイエス様を銀貨30枚で引き渡すことになってしまいました。彼が裏切ったことで結果としてイエス様は過越の祭りの間に過越の子羊として十字架にかけられるという神のご計画が成し遂げられました。けれども、私達は“ユダは神のご計画を成し遂げるために裏切った。彼はむしろ良いことをした”という皮相的な見方をするべきではありません。昔そんな見方をした異端がいてユダの福音書という異端的文書を残しました。けれども、それは間違った見解です。やはり裏切りは罪です。
大事なことは、イエス様はそんなユダをも愛して最後の最後まで彼が悔い改めに導かれ、裏切りを思い留まる機会を与えようとしたことです。それがよく最後の晩餐と言われる過越の食事なのです。
その食事会でまず初めにイエス様はみんなにわかるように「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの1人が裏切ります」とか「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。」と言いました。さらにイエス様は踏み込んで「人の子は、自分について書かれているとおりに去っていきます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」と言いました。イエス様が受難するのは神のご計画だから、もう決まっています。しかし“あなたは恐ろしい罪を犯そうとしている”とユダを厳しく警告したのです。次の25節はイエス様とユダだけの間のやり取りです。ユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と尋ねるとイエス様は「いや、そうだ」と答えました。それは“裏切りを思い留まりなさい”という最終的な警告でした。
普通この世では自分を裏切り死に引き渡す者がいたら、すぐにその者を排除して身を守ろうとします。けれどもイエス様はまったく身を守ろうとしないで、裏切りを思い留まるか、それとも突き進むか、下駄をユダに預けました。ユダは自分を売り渡すとんでもない弟子でした。けれども、そんなユダをもイエス様は愛していました。だからユダを排除せず、そのままにして彼が自分から悔い改めて裏切りを思い留まり、主に立ち返ることを期待したのです。自分を裏切るという極限状態でもイエス様はユダの魂の救いを考えていたのです。
ところで、私達もこの時のイエス様と同じような立場に立ち、小さくてもイエス様と同じ思いになることがあります。どうしてか?それは私達の周りにもユダのような人達がたくさんいるからです。初め彼らはイエス様やイエス様を信じる私達にある種の期待を抱いて近づいて来ます。でも、そのうちにだんだんわかって来てイエス様やイエス様を信じる私達や教会が自分の期待とは違うことに気づいて来ると、付き合いは続きながらも主から離れ気味になります。それはユダと似ています。そういう人達が本当に主の者になるには、自分の期待から一旦離れて神のみこころを求めなければなりません。けれども、私達には彼らが神のみこころを求めるようにゴリ押しすることは出来ません。そうさせて下さるのは私達ではなく御霊です。だから最後の最後までユダを何とか悔い改めに導こうとしたイエス様と同じような立場に私達も立っています。
そんな私達にとって大事なことを聖書は教えています。それは神の限りない愛を確認することです。私達の愛は限られています。あるところまでは愛を持って接することができ、また愛をもって祈ることが出来ます。けれども、あるところを越えたら、もう切れてしまい愛することが出来ません。自分に逆らう人達や意にそぐわない人達は見放してしまいます。けれども、神の愛は限りがありません。神はいつまでも1人1人の魂を愛します。神は最後の最後まで逆らい続ける魂を愛し続けます。
「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して(ローマ10:21)」このみことばは神の愛をよく表しています。神は逆らい続ける人々をも愛し続けるお方なのです。イエス様はその愛を裏切るユダに対していのちを捨てることで表して下さいました。この神の愛を知ることから私達の主の弟子としての歩みが始まります。私達はもともとはその愛を持ち合わせていない者ですが、主の十字架を通してその愛を示されていますから、私達はすでにその愛を知っています。だから、主から離れ気味になり、逆らい反抗する人達のために魂の救いを続けて祈りましょう。