マタイ27:62-28:20、1コリント15:20-23

「キリストの復活を宣べ伝える者たち」  内田耕治師

 

イエス様は十字架にかかる前からご自身が苦しめられ殺されて3日目によみがえることを何度も言っていました。代表的なものが16章のピリポ・カイサリア地方に行ったときのことです。イエス様は弟子達に「自分はエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者から苦しめられて殺されて3日目によみがえらなければならない」と言いました。これが十字架の死と復活を語った最初ですが、イエス様はそれと同じようなことをその後も何度か話しました。

けれども、弟子達は聞こうとしたがらないし、聞いても理解しないという状況が続いて彼らはイエス様が十字架にかけられるなどと思っていなかったし、イエス様が十字架で死んだ後でも、復活するなんて全く思っていませんでした。けれども、その預言自体は広がって弟子達以外の人達にも“イエスという奴は死んで3日目によみがえると言っているそうだ”という形で噂されていました。

だからイエス様の十字架の翌日、祭司長達やパリサイ人達はピラトのところにやって来て“厄介者のイエスは死んだけれども、弟子達がイエスの死体を盗み出してイエス様がよみがえったと言い出したら、もっと大きな惑わしになります。だから、そうならないように3日目までは墓に番兵をつけてください”と要請しました。ピラトは了解して主の十字架の後、3日目までは番兵達に墓を見張らせることになりました。そのような状況で3日目である週の初めの日の早朝にイエス様はよみがえられました。

早朝にマグダラのマリヤともう1人のマリヤが墓を見に行きました。そこには番兵達もいました。その時、地震が起こり、御使いが天から降りて来て墓の入り口の大きな石をわきに転がしてその上に座りました。番兵達は震え上がり、死人のようになりました。2人のマリヤも恐れましたが、御使いは彼女達に話しかけました。何を言ったのかというと、イエス様が死人の中からよみがえられたことと、そのことを弟子達に伝えてほしいということでした。2人は急いで弟子達に知らせに行きました。

すると知らせに行く途中でイエス様が現われました。彼女達はイエス様に近寄り、その足を抱いてイエス様を拝しましたが、イエス様は“ガリラヤに行くように”と弟子達に伝えるように頼みました。一方、番兵達はエルサレムに戻って起こったことを祭司長達に報告したら、祭司長達は彼らに金を与えて弟子達がイエスの死体を盗んだと言うようにと指示をしました。

そのころ弟子達は主の復活は喜んだものの、“イエス様と一緒に死にます”と言っていたのに主が逮捕されたとき、みんな逃げて裏切り、主の十字架にショックを受け、弟子の歩みが中断してこれからどう生きて行けばいいのかという状態になっていました。でも、彼らは2人のマリヤが伝えた通りにガリラヤに行き、イエス様が指示された山に登りました。弟子達はその後ガリラヤから再びエルサレムに行き、そこから本格的に宣教を始めたことがわかります。けれども、彼らがガリラヤに一旦戻ってイエス様から大宣教命令を受けたことにはそれなりの意味があります。その意味とは何か?まず原点に立ち返って再出発することです。

イエス様に出会う前、彼らはガリラヤで、ある者は漁師、ある者は取税人―――でしたが、イエス様に出会って、イエス様が声をかけてくれたから彼らの人生はガラリと変わりました。イエス様が福音を伝えてくれたから、彼らは弟子として歩みを始めることができました。ガリラヤは弟子として歩み始めた彼らの原点でした。イエス様は彼らをもう一度原点に立たせて、再出発させることを目指したのです。

次に、イエス様は再出発させるために、ご自身の権威で宣教に遣わすことを約束しました。遣わすとはどういうことか? 遣わす権威が背後に存在し、その権威よって遣わされることです。その権威とはイエスキリストご自身です。弟子達は漁師や取税人というごく普通の平凡な人達で何の権威もなかったですが、イエスキリストの権威によって遣わされたから、彼らは人々に福音を伝え、信じる人達を弟子にすることができ、父と子と聖霊の名において信じた人達にバプテスマを授けることができ、イエス様が命じたすべてのことを守るように教えることができました。私達も同じです。

また再出発させるために「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいいます」と言って励ましました。このみことばは2つの期間を表わしています。1つは私達が生きている期間であり、もう1つは私達が死んでから世の終わりが来るまでの期間です。私達が生きている間にイエス様がともにいて下さることはよく理解できることですが、死んでからもともにいて下さるとはどういうことか?

普通、権威というと、私達がこの世にある間だけのことです。けれども、イエス様の権威はこの世で私達が生きている間だけでなく、死んでからも有効です。イエス様との関わりは、私達が死んでからも世の終わりまで続きます。それは私達にとって一体どういうことか?それは世の終わりに来る天国に私達もイエス様と同じようによみがえって確実に入れるようにして下さることです。第一コリント15章に「キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた」と書いてあり、もう少し読むと、「まず初穂であるキリストがよみがえり、次にキリストの来臨のときにキリストに属している者がよみがえる」と書いてあります。

キリストの来臨とは世の終わりです。2000年前、イエス様が死者の中からよみがえりましたが、世の終わりにはイエス様を信じる私達がよみがえり、天国に入るようになります。イエス様は私達が死んでからも私達を見捨てず、やがて世の終わりによみがえって天国に入れるようにしてくださいます。だから「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」なのです。

この世の人々はもちろんのこと、私達も死んでからのことをあまり考えません。けれども、イエス様は死んでからの私達も見捨てないのです。この約束が与えられていますから、私達はこの世を去る寂しさはあっても基本的に死を恐れることがありません。今この世でイエス様は共にいてくれるだけでなく、死んでからも私達を見捨てず必ず天国に入れるようにしてくれるからです。2000年前の弟子達はこの祝福をもたらすために立ち上がり、イエスキリストの権威によって世界に遣わされました。そして今の私達もこの祝福をもたらすために立ち上がり、イエスキリストの権威によって遣わされているのです。