ルカ24:36-53
「主が準備してくださる喜び」 内田耕治師
私達はいろんなところを通されて辛い思いをしたり不安になったり喜んだりしながら自分がどこに向かい何をするかが決まってきます。それは言い換えると、自分に関する神のご計画を実現するために準備がなされていることです。しかし、それがわからないと、“何で自分はいろんな所を通されるのか?”という呟き(つぶやき)になってします。神のご計画を実現する準備をしているという理解は大事なことです。
イエス様の弟子達はイエス様の逮捕、十字架の死そして復活、さらに昇天による別れという、いろんな所を通されましたが、それらはすべて彼らに関する神のご計画を実現するための準備でした。弟子達はイエス様が逮捕される時にみんな逃げ、イエス様が十字架にかけられて、不甲斐なさと失意と落胆に沈んでいました。どうやって生きて行けばいいのか将来の展望を見失っていました。けれども、そんな彼らは復活したイエス様に出会って喜び、またみことばを通して神のご計画を示されて再び立ち上がることが出来ました。いろんな所を通されたのはすべて神のご計画を実現するための準備でした。
その準備はまず、主の復活を確信することから始まりました。彼らは主が復活したと言っていても、霊だけで体の復活を信じていなかったので彼らの前に現れ、焼いた魚を彼らの前で食べて確かに体が復活したことを示しました。イエス様の死によって失望と落胆に沈んでいた彼らは、ようやくイエス様の復活を確信して希望を取り戻すことができました。
次にイエス様は弟子達に、罪の赦しを得させる悔い改めを全世界に宣べ伝える証人となるという神のご計画を教えました。まず罪の赦しについては大昔に「モーセの律法」が、羊や牛などの動物のいけにえに人間の罪を負わせてささげることで、罪の赦しが与えられると教えていました。けれども、その後のイザヤの時代になると動物ではなくて、人々の罪や咎の身代わりとして苦しめられ砕かれるある人が現われて、その人によって人々は癒され平安が与えられるという預言が出てきました。イザヤ53章「彼は私達の背きのために刺され、私達の咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私達は癒された。」という預言です。イエス様は人類の神に対する背きの罪のために十字架にかけられました。イエス様が私達の罪の身代わりとなって死んでよみがえることで救いの道が開かれました。その救いの道に入る者は罪の赦しが与えられて救われます。
人が救われて罪の赦しを受けるには、その人が神の前に罪ある者であることを認めて、キリストを通して神に立ち返ることが必要です。キリストを通して神に立ち返ることを悔い改めと言います。では、この悔い改めは旧約聖書のどこから出て来たのか?それはエゼキエル33章です。
「彼らにこう言え。“わたしは生きている。――神である主のことば。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」エゼキエル33:11 イエス様が十字架によって救いの道を定めて下さったから、あなたは今、罪を認めてキリストを通して主に立ち返りなさいと勧めています。これが罪の赦しを得させる悔い改めなのです。さらに「罪の赦しを得させる悔い改め」は「あらゆる国の人々に宣べ伝えられるもの」です。
創世記12:3「――地のすべての部族は、あなたによって祝福される」 その祝福とは、イエスキリストを通して与えられる救いです。つまり罪の赦しです。罪の赦しを得させるための悔い改めはアブラハムの子孫であるユダヤ人だけでなく、全人類に向けられたものなのです。
イザヤ49:6「主は言われる。“あなたが、わたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者達を帰らせるという小さなことのためだけではない。わたしは、あなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」 神のご計画とは全世界を目指して地の果てに罪の赦しを得させる悔い改めを知らせ、救いをもたらすことなのです。
イエス様は以上のことをまとめて46-48節の「キリストは苦しみを受け、3日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから開始して、あなたがたはこれらのことの証人となります。」というメッセージを弟子達に語りました。これで彼らは自分達に関する神のご計画が何であるかわかりました。それは彼らがそのような証人となることでした。
イエス様はさらにもう1つのことを語りました。それはこれらのことの証人となる力が与えられることでした。49節「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を帰せられるまでは、都にとどまっていなさい。」彼らは自分達の力で主の証人になるのではありません。神から与えられる力によって主の証人になります。今もう少しでその力が与えられようとしていました。その力とは使徒の働き2章で弟子達に注がれた聖霊のことです。
その後、イエス様は昇天して本当にいなくなりました。少し前にイエス様が十字架で死んでいなくなったとき、彼らは失意と落胆に沈んだのに、今度はいなくなっても失望することも落胆することもなく、希望に満たされて喜んでいました。どうしてか? それはこれまでのことすべてが神のご計画を成し遂げるための準備であることがわかり、主の証人となる展望が示され、そうなるための力も約束されたから、たとえイエス様が昇天していなくなっても喜ぶことが出来たのです。
ところで、主はそのご計画を、私達を通して実現するために、あることは少しずつあまり気がつかないように準備をし、あることは明らかにわかるように事を起こして準備をします。そして私達はそのような主の準備に気づくことで徐々に神のご計画がわかり、展望が持てるようになり、弟子達と同じように喜びや生きがいを持つことができます。また、神のご計画は人それぞれですが、私達には共通して与えられている神のご計画があります。それは弟子達と同じように罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝える証人となることです。小さな私達であっても、弟子達と同じ証人です。なぜなら、私達は見ていないですが、みことばによって主の復活を信じているからです。弟子達と同じように聖書から主の十字架や罪の赦しや悔い改めを教えられているからです。そしてイエスキリストを信じる者はだれでも御霊が与えられているからです。神のご計画は私達も弟子達と同じように、罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝える証人とすることなのです。