1コリント15:20-28

“神がすべてのすべてとなる時を待ち望め”  内田耕治師

 

キリスト信仰とは思い通りにならなくても先が見えなくても諦めないで神の約束を信じて待ち望むことです。でも、何が神の約束かということが大事な点です。

ユダヤ人は長い間、祖国から外国の勢力を追い出してユダヤ人を解放し、ユダヤ人の王となって自分達の国を立て上げる政治的なメシヤを待ち望んでいました。2000年前イエス様が来られたとき、ユダヤ人も弟子達もイエス様に政治的なメシヤを期待しました。けれどもイエス様が十字架にかけられて死んだことでその期待は頓挫し、弟子達は一時、失意と落胆に陥りました。

けれども死んだイエス様が復活したことや、復活したイエス様が語られたことによって本当のメシヤが、つまり本当にイエス様が目指していたことがわかりました。それはユダヤ人の国を立ち上げることではなくてキリストが人類の罪の身代わりとして十字架にかけられ、その血によって罪の赦しを得させる救いの道である福音を弟子達に宣べ伝えさせることでした。それで世界に福音が広がり、キリストを通して罪の赦しを得て救われる者がたくさん起こされることを待ち望むようになりました。

それはキリストを通して信仰的に死からいのちに移されることです。それは人類最初の人であるアダムの罪によって人間はだれでも霊的に死んだ者となりました。ローマ5:12「こういうわけで、ちょうど1人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入った」1コリント15:21「死が1人の人を通して来た」15:22「アダムにあってすべての人が死んでいる」

キリストの福音による救いとは、キリストの十字架の血によって罪の赦しを与えられて霊的に死んでいた私達がいのちに移されることです。15:22「キリストにあってすべての人が生かされる」と言っています。これが救いなのです。私達は、キリストの福音を宣べ伝えながら、さらに多くの人達がキリストを通して主に立ち返り、霊的な死からいのちに移されることを待ち望んでいます。また私達は信仰的に死からいのちに移ることだけでなく、体がよみがえることも待ち望んでいます。

15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」キリストは初穂として死者の中からよみがえりましたから、キリストを信じる私達はその後に続いて死者の中からよみがえります。いつのことか?キリストが再び来られるときです。15:23「それぞれに順番があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人達です」

主がいつ来られるかは私達にはわかりません。神はそのことを私達に教えておられません。だから聖書は私達に主がいつ来られても良いように、いつも目を覚まして備えをして再臨の主を待ち望むことを勧めています。また私達が生きているうちに主が来られる可能性もありますが、私達が死んで葬られた後で主が来られる可能性のほうが大きいと思います。

そのとき死んだ私達はキリストと同じようによみがえります。やがて朽ちてしまう体ではなく朽ちない永遠の体が与えられます。私達は永遠のいのちを待ち望んでいるのです。永遠のいのちが与えられるその時とは神の国が確立する時です。主の祈りに「―御国を来たらせたまえ」と祈る所がありますが、それは世の終わりに確立する神の国を待ち望むことを表わします。

世の終わりには、再臨したキリストが王となってこの世のあらゆる支配や、あらゆる権威や、あらゆる権力を滅ぼします。最後の敵である死も滅ぼします。その時「神は万物をその方の足の下に従わせた」という預言が成就します。「その方」とは神の御子キリストのことです。そして御子が万物の主となり、万物が御子に従うときに、御子自身も、万物をご自分に従わせた方に従われます。そうすることで神がすべてのすべてとなります。

今のこの世界にはいろんな国やいろんな権威やいろんな権力が存在しますが、すべてが罪ある人間が造った国であり、権威であり、権力だから、すべて不完全です。すべて問題を抱えながら存在しています。時には人々を苦しめて不幸にする邪悪な国や権威や権力が存在します。けれども、私達は世の終わりに再臨の主がすべてをさばいてすべての罪を清算し、あらゆる国や権威や権力を滅ぼし、神の国を確立して下さることを待ち望んでいます。それは現実的に言うと、この世の国や権威や権力を認めて従うけれども崇めないということです。

ローマ13:1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」

この世の国や権威や権力はすべて不完全であっても、今の秩序を守るために神が立てたものです。だからその権威を認めて従う必要があります。けれども、それらは所詮、神に用いられるしもべです。私達はしもべを崇める必要はありません。崇めるべきは神と神の御子です。だからキリストが確立する神の国を待ち望みます。

それには時には戦いがあります。なぜなら、この世の国や権威や権力は自分の居るべき立場を越えて自分を神や神の国のように言い出して私達に礼拝を要求することがあるからです。そんなとき、神と神の御子だけを崇める私達は迫害を受けるかもしれません。けれども、神は私達に耐え忍ぶ力を与えて下さいます。だから神と神の御子だけを崇めて、世の終わりに神の御子キリストが確立する神の国を待ち望むのです。