ルカ24:13-35

“本当のイエス様がわかる喜び”  内田耕治師

 

ユダヤ人は誇り高い神の民でしたが、大昔からもう長い間、外国の支配を受けていました。イエス様がおられた当時はローマの支配を受けていました。外国の支配によって彼らの民族の誇りは傷つけられ、ユダヤ人はメシヤ思想と言って自分達を外国の勢力から解放してくれる救い主を待ち望んでいました。彼らが求めていたメシヤとはユダヤ人の王となるお方でした。十字架にかかるお方ではありません。だからイエス様が十字架の死と復活の預言をしても、弟子達はそれを理解することが出来ず、かえって拒否しました。彼らは本当のイエス様を知らなかったのです。

「私達は、この方こそイスラエルを解放する方だと望みをかけていました」2人の弟子も11弟子と同じようにユダヤ人の王となるメシヤを待ち望んでいたので、イエス様が十字架で死んだことでその期待は破綻し、彼らは失意のどん底に突き落とされました。彼らも本当のイエス様がわかっていませんでした。エマオに帰る途中、復活したイエス様が彼らとともに歩みましたが、彼らの目は遮られていてイエス様であることがわかりませんでした。それでイエス様は「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて預言者達の言ったことすべてを信じられない者達。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」と言って、そこから改めて聖書つまり旧約聖書全体を通してご自身の十字架の死と復活に関するみことばを説き明かしました。しかも歩きながらそうしました。

どうして歩きながら説き明かしができたのか?イエス様はもちろんのこと、当時ユダヤ人は旧約聖書の主要なみことばを子供の頃から暗記してだいたい覚えていたので、イエス様があるみことばを語れば、2人はそのみことばがすぐにわかりました。だからイエス様は歩きながら説き明かしができました。たぶん話したと考えられるみことばは、少なくとも2つあります。

イザヤ53:5-6「彼は私達の背きのために刺され、私達の咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、その打ち傷によって私達は癒された。私達はみな羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし主は私達すべての者の咎を彼に負わせた」

この「彼」とはイエス様のことです。イエス様は何の罪もないのに私達の背きや咎のために身代わりとして十字架にかかりました。イエス様の十字架は私達の罪の身代わりになるためです。そうすることで私達に平安や癒しが与えられます。本当のイエス様とはイスラエルを外国勢力から解放する政治的メシヤではなくて1人1人の人間に罪からの救いを与える救い主キリストなのです。

詩篇16:10「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにはならないからです」

「私のたましい」はイエス様のことです。つまり神は十字架で死んだイエス様をよみに捨て置くことなく、よみがえらせました。本当のイエス様とは死者の中からよみがえり人間に永遠のいのちへの道を開かれたお方なのです。以上のことを聞くと、失意で沈んでいた彼らの心に変化が現われました。

「道々お話しくださる間、私達に聖書を説き明かしてくださる間、私達の心は内で燃えていたではないか」本当のイエス様がわかって来るにつれて、喜びが沸き上がってきたのです。そして心に喜びが沸き上がってくると、イエス様に「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言ってエマオの村の自分達の家に来ていただくようにお願いしました。それはみことばへの飢え渇きが芽生えてイエス様からもっとみことばを聞きたかったからです。「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった」エマオの家で、最後に彼らはみことばを説き明かしてくれたお方が、イエス様ご自身であることに気が付きました。それ以前に彼らは目があっても心が開かれていなかったのでイエス様がわかなかったですが、心が開かれると目の前にいる方がイエス様だとわかり、わかるとイエス様は見えなくなりました。

不思議な現象ですが、これはその直後2人が復活したイエス様に会ったことを自分で進んでエルサレムの11人の弟子に伝えに行ったことにつながります。復活したイエス様に出会った喜びは抑えきれなくてイエス様に指図されなくても彼らを証しに駆り立てたのです。2人が行くと、11人の弟子もその仲間とともに集まって「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と証しをしていました。それで2人も彼らに加わって復活の主に出会ったことを証しし、みんなで主の復活を喜ぶことができました。

ところで、私達もこの2人の弟子と同じように本当のイエス様がわかれば、その喜びを押さえることが出来なくて進んでイエス様を証しする者に変えられました。かつて本当のイエス様を知らなかったとき、イエス様の十字架は自分とは関係のないことであり、イエス様が死んでよみがえったなど考えてもみませんでした。けれども、復活したイエス様と同じように私達のために聖書全体を通してイエス様の十字架の死と復活を説き明かしてくれる人達がいました。そういう人達のおかげで、あの2人のようにだんだん本当のイエス様がわかってきました。そうなると、あの2人と同じように指図されなくても、自分から進んでイエス様を伝えるようになります。どうしてか?本当のイエス様がわかった喜びがあるからです。喜びとは自分のうちに納めておくことが出来なくて他の人達にも分かち合いたくなるものだからです。さらに本当のイエス様がわかった喜びがあるならば、聖書全体を通して説き明かしたイエス様ご自身のように、私達も本当のイエス様を聖書全体を通して説き明かす者となることが出来ます。

今、聖書知識があまりないとしても問題ありません。本当のイエス様がわかったという喜びがあれば、大丈夫です。その喜びがあれば聖書知識は後について来ます。大事なものは心が内で燃えるような喜びです。その喜びの火はイエス様を信じる皆さんにすでにあるはずです。毎日の仕事や生活で忙殺されてその喜びを忘れかけている人でも、何かと不平不満が多くてその喜びを見失っている人でも、問題をかかえて苦しむ人にも、探してみればその喜びがあるはずです。種火のようなチョロチョロ燃える小さな火でも、火であることには違いありません。その火があれば、本当のイエス様を知っている喜びがあり、イエス様を証しし、聖書からイエス様の死と復活を説き明かす者となれるのです。