1コリント15:50-58

“キリストによる死への勝利”  内田耕治師

 

人間はだれでも一度は死ななければなりません。だれもが死を恐れています。死を恐れるがゆえに人生について偏った考え方や生き方に陥ることがあります。コリントを始めとする当時のギリシャ人の社会には死への恐れから来た人生についての偏った考え方がありました。

1コリント15:32「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」

死ねば、すべてが終わりだから生きているうちにやりたい放題をして欲望を追求したらいいという快楽主義がありました。それは自堕落な生活になり、自分をダメにし、さらに家族に迷惑をかけて不幸に陥る生き方につながります。禁欲主義もありました。この世の喜びや楽しみを否定し、体を卑しいものとし、過度の禁欲に走り、肉体の苦行をしたり、結婚を否定することもありました。そんなことが教会にも忍び込んできたので新約聖書は“それは聖書の教えではない”と言って戦いました。参照、コロサイ2:21-23、1テモテ4:3

1コリント15:12「――どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人達がいるのですか」

コリント教会にはイエス様を信じているのに世の終わりの死者の復活を否定する人達がいました。彼らの復活信仰は揺らいでいたのです。ギリシャ人は人間を体と魂に分ける霊肉二元論で、死は魂が体から解放されて高い次元に移ることだと考えました。だから、世の終わりに体が与えられることを魂が再び体の牢獄に閉じ込められることと考えてしまい死者の復活を否定したのです。その考え方は体を卑しいものとして人生を虚しいものにしてしまいます。その背後に死への恐れがありますが、それは死に対して敗北した生き方です。それに対して聖書は世の終わりに私達が朽ちる体ではなくて朽ちない体で復活すると教えています。もしキリストの再臨のとき今と同じような朽ちる体が与えられるとしたら、また寿命が来たら死んで体は朽ち果てますから同じ人生の繰り返しです。またギリシャ人に言わせれば、それは魂が肉体という牢獄にまた閉じ込められることになってしまいます。それは救いではありません。

けれどもキリストの再臨のとき私達は朽ちない体が与えられます。朽ちない体とは天上の体であり、御霊の体であり、栄光の体です。私達はその体で神の国を相続し、神の国で神と神の御子とともに永遠に生きます。それが天国です。そのとき最後の敵である死は完全に滅ぼされます。また私達が生きているうちにキリストの再臨が来た場合も同じです。その場合は私達の朽ちる体は一瞬のうちに朽ちない体に変えられます。「終わりのラッパ」とはキリストが再臨された時を表します。その時、死者は一瞬のうちに朽ちない者によみがえり、生きている者は一瞬のうちに朽ちない体に変えられ、死に対する勝利が宣言されます。さらに、やがて朽ちない体が与えられることは今の朽ちる体に大切な意味をもたらします。それは神は今の体を元にして朽ちない体を与えてくださるから、今の朽ちる体も大切だということです。パウロはそのことを種のたとえで説明しています。穀物の種を集めて、手の平に乗せてただ眺めているだけでは実を結ばず何の収穫も得ることが出来ません。何年経っても種は種のままです。でも、その種を地に蒔けば、芽を出し、成長して豊かな実を結ぶことが出来ます。私達はこのような種と似ています。それは私達が種と同じように死んで朽ちることでやがて世の終わりに朽ちない体という豊かな実を結ぶことです。

またもし種がなければ豊かな実を結ばせることができないのと同じように、今の私達の体がなければ、世の終わりに朽ちない体となって神の国を相続することが出来ません。今の朽ちる体があるからこそ、朽ちない体となって天国に入ることが出来ます。だから今の体は朽ちるものであるとしても必要な尊い存在なのです。その尊さがわからないから、どうせ明日は死ぬんだと言ってやりたい放題をして自堕落な生活に陥り、自分をダメにします。けれども、その尊さがわかっていたら欲望を抑制して平安な生活を目指し、自分の体をもっと良いことに用いようとします。

またその尊さがわからないから古代ギリシャのある人達は自分の体を卑しめ、過度な禁欲に走り、肉体の苦行をし、結婚を否定して人生を虚しく詰まらないものにしました。今でもその尊さがわからず“人生は虚しい、意味がない”などと言っていると、言った通りの人生を歩んでしまいます。けれども、その尊さがわかっていたら与えられているものを感謝して喜んだり楽しんだりして人生を謳歌するようになります。参照、伝道者の書5:18-19

またその尊さがわからない人は突き詰めると、朽ちない体が与えられることを否定します。そういう人は地上のいのちにおいてのみ、キリストに希望を抱くことであり、キリストを信じると言いながら救いを得ることが出来ない一番哀れな者です。けれども、その尊さがわかる人は、やがて朽ちない体が与えられることを信じて、そのことが起こるキリストの再臨を待ち望みながら、キリストの福音を一人でも多くの人達に宣べ伝えようとします。

人々にキリストの福音を宣べ伝えることはなかなか聞いてくれなくて宣教がスムーズに進まないので労苦でもあります。けれども、私達は労苦して多くの人々にキリストの福音を宣べ伝えるならば、やがて来るべき神の国でその労苦の実を見られることを知っています。

58節「あなたがたは、自分達の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」

最後に今の体が、やがてキリストを通して朽ちないものとなるために必要な尊い体であることがわかっている者が、死に勝利する者です。私達は自分の力や意志で死に勝利することは出来ません。自分の力や意志でいくら頑張っても、やって来る死に全く太刀打ちすることができません。けれども、イエスキリストの死と復活を通して私達の体はやがて朽ちない栄光の体となって神の国を相続します。つまり私達はキリストを通して朽ちない者となることを信じることで死に勝利することが出来るのです。