使徒2:14-21

“終わりの日にすべての人に注がれる神の霊”  内田耕治師

主の復活から50日目の五旬節のとき、約束通りに聖霊が注がれました。天から激しい風が吹いて来て、炎のような舌が分かれて1人1人の上にとどまり、弟子達は聖霊に満たされて御霊が語らせてくださるままに他国のいろんな言葉で話し始めました。これがペンテコステの出来事です。それを見ていたある人達は非常に驚き、ある人達は「彼らは新しいぶどう酒に酔っている」と言って嘲りました。ペテロと11人は嘲られたことに対して「今は朝の9時ですからーー酔っているのではありません」と言うことから始めて旧約聖書のヨエル書を引用して今起こっている出来事はヨエルの預言が成就したことだと語りました。ただし旧約のヨエル2章とペテロが引用したヨエルの預言には少し違いがあります。

旧約のヨエルが「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」と言うのをペテロは「終わりの日にーーー」と言い換えました。イエス様はペテロを始めとする使徒達に“今は終わりの時だ”という終末意識を教えたからです。イエス様が来られて以来、この世は終わりの日になりました。それはイエス様が再臨して世の終わりになるのは近いことです。キリスト者はこれまで2000年もイエス様の再臨を待ちましたが、まだ来ていません。だから今後もその状態が続きます。

でも、主がまだ来ていないのは恵みです。救いの門は開いているからです。主はすべての人達が悔い改めに進むことを望んで忍耐深く救いの門を開いて待っておられます。でも、やがてさばきの日がやって来ます、その日が来たら主を信じない者は滅ぼされます。だから聖書は主がいつ来られてもいいように、与えられた人達や関われる人達に出来る限りイエス様の福音を宣べ伝えておくことを勧めます。

ところで、ペテロが引用したヨエルの預言はそんな私達に素晴らしいことを約束しています。それは終わりの日にいる主を信じる者すべてに神の霊が注がれてみことばを語れるようになることです。終わりの日がまだ来ていなかった旧約時代は、特定の限られた人達にしか神の霊が与えられていませんでした。出エジプトのとき、初めモーセだけに、その後70人の長老達にも神の霊が注がれましたが、さらに天幕にいた2人にも神の霊が注がれたことがキッカケでモーセは「―――主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」と言いました。主の民みんなが神の霊を与えられて預言者となり、みんながみことばを語ることは歴史的な悲願でした。

「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」とはその歴史的悲願が実現したことなのです。そして、今も2000年前と同じように終わりの日ですから、イエス様を信じる私達のうちに神の霊が注がれ、私達はみことばを語ることが出来ます。「――あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。」この預言とは、私達が語るみことばや証しです。聖書をよく学んでいてもイエス様を信じていない人は神を崇めることはできないし、みことばを宣べ伝えることも出来ません。けれどもイエス様を信じる私達は神を崇めることができるし、“このみことばをあなたにプレゼントします”と言ってみことばを広めたり、みことばを説き明かしたり、自分がどのようにイエス様を信じるようになったのか証ししてみことばを宣べ伝えることができます。

牧師や宣教師が語るメッセージもこの預言のうちに入りますが、もし預言をそれだけだとすると、神の霊が注がれたのに預言出来ない人達がたくさん出て来てしまいヨエルの預言がまだ成就していないことになってしまいます。また夢や幻とは私達が信仰によって与えられるビジョンです。聖書を学んでいてもイエス様を信じていない人は“どこかに宣教に行きたい”という幻や“主のためにこんなことをしたい”というビジョンを持つことはありません。けれども、イエス様を信じて御霊がある人はそういうことがあります。信仰によって得られたビジョンを行うことで主のために良い働きをすることができます。

そして神の霊を注がれた私達には宣べ伝えるべき救いのメッセージが与えられます。それが「主の御名を呼び求める者はみな救われる」ということです。聖書には、神について教えるみことば、罪について教えるみことば、救いについて教えるみことば、慰めを与えるみことば、忍耐を教えるみことば、戒めや教訓を教えるみことば、―――とにかくたくさんのみことばがあり、みことばを語る気になれば、どれだけでも語ることが出来ます。

けれども、どんなみことばを語ったり教えたりするとしても、聞く人達が主の御名を呼び求めるようになるためにします。「主の御名を呼び求める」とは主の前に、自分は罪ある者だと認めてへりくだって救いを求めることです。みことばをたくさん知ることは大切です、だから聖書をよく読むことは大事なことです。けれども、それはみことばの知識をたくさん身につけて自分に自信をつけるためではありません。それは神の前にへりくだり主に救いを求めるようになるためです。

反対にみことばをたくさん学んで知識がついて自分に自信が出て主に助けを求めなくなり高ぶり出したとしたら、それはみことばを学ぶ目的から外れますから目指すところではありません。目指すところは、みことばを聞いた人達が主の御名を呼び求めるようになることです。みことばはそのために存在します。特に世の終わりの預言はそのためにあります。

「また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。」これはイエス様が再臨する世の終わりの様子を描いたものです。その時には、私達の力も知識も知恵も財産も地位も何の役にも立ちません。頼りにしていた人達もまったく頼りになりません。すべてのものが神の前にさばきを受けて滅ぼされてしまいます。でも、その時に1人だけ頼りになるお方がいます。それが神の御子イエスキリストです。

だから「主の御名を呼び求める者はみな救われる」なのです。そしてイエス様を信じて御霊が与えられている私達にはこのメッセージが与えられています。そういうわけで、私達は人々が主の御名を呼び求めるようになるために、みことばを宣べ伝えています。自分の救いを証ししたり“聖書にはこんなみことばがありますよ”とか“あなたにこのみことばをプレゼントします”と言ったりして私達はみことばを宣べ伝えます。当然のことですが、それは聞く人がやがて主の御名を呼び求めるようになるためです。神は、私達をイエスキリストによる救いを宣べ伝える者として立てておられるのです。