マタイ4:12-17
“キリストは闇の中にいる民への光” 内田耕治師
「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
光はイエスキリストであり、闇とは未開の地という意味ですが、この箇所の内容をもっと深く考えると、闇には私達の罪という意味も入ってきます。光であるイエスキリストは闇である罪から私達を救い出すお方です。ユダヤ人の読者を対象にして書かれたマタイの福音書は、ユダヤ人に適した言葉遣いでイエスキリストの到来を書いています。それはこの箇所でよく出て来る幾つかの地名です。そこに住んでいるユダヤ人や、そこを故郷とするユダヤ人には地名だけでピンと来るものがあるのです。
まず4章の前半はイエス様が悪魔の誘惑を受けるところです。4:5「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせた」これはイエス様が公生涯の初期に短い期間ですが都であるエルサレムにいたことを表わします。一般的にメシヤたるものは華々しく都からデビューすることがふさわしいですから、イエス様も初めはそれに倣い、エルサレムに出かけたということです。けれどもイエス様は「ヨハネつまりバプテスマのヨハネが捕えられたと聞いてガリラヤに退かれました」。当時ガリラヤを治めていたヘロデ・アンテパスはその兄弟の妻ヘロデヤを不倫して奪いましたが、ヨハネはそのことを”不法だ“と言い張って批判しました。妻のヘロデヤはヨハネを憎んで何とか亡き者にしたいと考えていました。その機会が訪れて、彼女はある策略を用いてヘロデ・アンテパスがヨハネを殺すように仕向けました。その結果、ヘロデ・アンテパスはヨハネを殺してしまいました。そのことを聞いたイエス様は「ガリラヤに退かれました」。どうしてヘロデがいるガリラヤに退いたのか?それはよくわからないことですが、それ以後イエス様はガリラヤで活動するようになりました。その後イエス様は「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カぺナウムに来て住まわれました」。
イエス様は故郷を捨てて孤立した状態でゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カぺナウムに住むようになりました。けれどもカぺナウムに住むようになったことはイザヤ書の預言の成就でした。その預言とはイザヤ9章です。「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。」それらの地域はガリラヤ湖があるイスラエルの北部です。イスラエルは政治的にも文化的にも宗教的にも南部のユダヤが中心でした。それに対して北部の地域は外国みたいな辺境の地でした。どうしてか?歴史が関係しています。北部は北王国が治めていましたが、北のアッシリヤという大国に侵略されて北王国は滅ぼされ、踏みにじられた屈辱の歴史がありました。征服したアッシリヤは外国からどんどん人を連れてきて住まわせ、その地のイスラエル人と結婚させたり、異教的なものを持ち込んだりしたので北部は伝統的なイスラエルのあり方から離れて「異邦人のガリラヤ」外国のような感じがする辺境の地となりました。都であるエルサレムから見ると、辺境の地であるガリラヤは闇が支配する死の陰の地であり、そこからは何も良いものは生まれない地域でした。だからイエス様が「ガリラヤに退いた」とは“都落ちして辺境の地に引っ込んだ”という響きがあります。
けれども、神のご計画はイエス様が辺境の地である北部のガリラヤから本格的に宣教を始めることでした。そんな所に住んでいた民が「大きな光」を見たり、その人達の上に「光」が昇ると預言しています。救い主は政治的、文化的、宗教的な中心であるエルサレムではなく、辺境であるガリラヤから出る。それが神のご計画でした。
「この時からイエスは宣教を開始し、“悔い改めなさい。天の御国が近づいたから”と言われた」。天の御国はマルコやルカヨハネとも違うマタイ独特の言葉遣いです。どうしてか?「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあるようにユダヤ人は昔から神の名前を唱えることを神への冒涜と思って極力避けました。その結果、ユダヤ人自身が神の名前を忘れてしまい、神のことを他の言葉で表すようになりました。「天」とは「神」の代わりに用いた言葉です。だから「天の御国」とは「神の国」のことなのです。そして「国」とは支配のことです。だから「天の御国」とは神の支配する所ということです。天の御国とはどこか?まず私達が死んだ後、世の終わりに入る天国ですが、それだけでなく、この世で神の支配が及ぶ所でもあります。それは具体的に言うと、イエス様を信じる私達の生き方のことです。イスラエル北部のガリラヤは、闇が支配する死の陰の地と思われていましたが、そこから救い主が現れ、「天の御国が近づいた」と宣教を始め、そこからイエス様を信じる人達が起こされ、神の支配が広がり始めました。それが、闇が支配する死の陰の地で民が大きな光を見て、人々の上に光が昇るということなのです。
ガリラヤから始まったイエス様の宣教は、弟子達が引き継いでさらに広範囲に宣教がなされ、弟子達の後にも次々に引き継ぐ者が起こされて今では東の果てである日本でも少しずつですが宣教が進められています。日本は本当に闇が支配する死の陰の地です。目に見える迫害はないのになかなか福音が入って行かない霊的に閉ざされた地ですが、そんな日本でも諦めることなく宣教が続けられています。信じる者がさらに起こされ、神の支配が広がることを切に願っています。そのためにマタイは是非必要なことを教えています。それは悔い改めです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とは、簡単に言うと“神の支配が近くにあるから、そこに入りなさい”と勧めることです。けれども、ほとんどの人達は神ではなく世に目が向いています。だから神と言っても真の神がわからなくなっています。だから、そこに悔い改めが必要です。悔い改めとは何か? それは、神との関係が切れて神がわからない状態にあることを認めることです。その状態を聖書は“罪”と言います。その“罪”を個々の罪と誤解する人が多いですが、個々の罪とは関係なしに人間である以上だれでも神との関係が切れているという意味で”罪“があります。
それは言い方を変えると、それは自分の闇の部分を認めて行くことです。人間はだれでも闇の部分があり、その闇は放っておいたら霊的な死をもたらします。霊的な意味では、すべての人が「闇の中に住んでいる民」であり「死の陰の地に住んでいる者達」です。ところが、残念ながら、ほとんどの人達は自分の闇の部分に気づいていません、自分が死の陰の地にいることに気づいていません。さらに私達がみことばを宣べ伝えても、なかなか人々は耳を傾けません。けれども、私達は諦めずに宣べ伝え続けるほかはありません。
そんな私達に一番大事なことは、私達自身が闇の中に住んでいるが大きな光を見ていることに気づくことです。死の陰の地に住んでいる私達の上に光が昇っていることに気づくことです。自分は罪ある者であり、闇の中にあり、死の陰の地に住んでいる者だけれども、光であるイエスキリストを見ている。このように思うことが私達をへりくだらせ、ひるむことなく諦めることなく福音を宣べ伝え続ける宣教の力を与えてくれるからです。