1コリント15:35-49
“朽ちない体で復活する恵み” 内田耕治師
イエスキリストが十字架にかけられて死んでよみがえったことを私達は信じて毎年イースターのお祝いをしています。それだけでなく聖書は世の終わりにキリストを信じる私達もよみがえることを教えています。私達もキリストが再臨するとき、初穂であるキリストに続いて復活するのです。しかも、その復活とは霊の復活ではなく、体の復活です。復活信仰は私達だけでなく古代のエジプト人にもユダヤ教にもイスラム教にもあります。けれども体の復活をどう考えるかはいろいろです。古代のエジプト人は復活したときに体が必要だということで死んだ人をミイラにしました。イスラム教は死んだままの体で埋葬すれば、その体が世の終わりの復活のとき用いられると考えて土葬にします。
けれども、私達の復活信仰では死んだ人は神が造った新しい体を与えられます。だから、私達はミイラを作る必要はないし、わざわざ土葬にする必要もありません。火葬にしても大丈夫です。ただ世の終わりの復活を信じていればいいのです。
でも、新しい体と言うだけでは定義が曖昧です。だから昔「死者はどのようにしてよみがえるのか?どのような体で来るのか?」と質問する人達がいましたが、その質問の背景には聖書とは異なるギリシャ的な物の考え方がありました。聖書は魂と体と1つであると言っていますが、ギリシャ人は魂と体を分けて考え、魂はきよく高い次元に行くことができ、永遠不滅だけれども、体は汚れて次元が低く滅びるものだと考えていました。魂は体の中に閉じ込められている限り汚されてしまいますが、体が死ねば魂は解放されてきよくなることが出来ます。だから死とは牢獄である肉体から魂が解放されて高い次元に移ることだと考えました。
そんな考え方をするギリシャ人ですから、世の終わりの死者の復活を聞いたとき“また体の牢獄に閉じ込められるのか”と言って体の復活を忌み嫌い、死者の復活を否定したのです。だからパウロは復活による新しい体とは、今ある朽ちる体とはまったく異なる朽ちない体であり、永遠のいのちであり、栄光の体であり、御霊に属する体であり、天に属する体であると説明しました。
ギリシャ人は以上のことがわからなかったので、霊の復活は受け入れても体の復活を受け入れることができなかったのです。けれども、新しい体とは体も魂もいっしょに天国に入る天に属する体なのです。天国とは、神と神の御子を中心にして世の終わりに復活した朽ちない体が集まる所です。よく天国とは死んだ者の魂だけが集まる所と考える傾向がありますが、それは違います。それは体を卑しいものとし魂を高い次元のものとするギリシャ人の考え方から出て来たものです。ギリシャ的な考え方を突き詰めると、どうなるか? 死んで体がなくなれば魂は解放されて高い次元に行くことができるのだから、全人類が滅んで全人類の魂だけが残ったら、全世界が高い次元に移ることが出来る。だから、それが天国だと言うことです。
その考え方は人生観に大きな影響を与えます。人は体を徹底的に卑しめ、禁欲に励むことで高い次元に移ることができるという人生観が出て来るのです。初代教会はそのようなギリシャ的な考え方と静かに戦いました。
コロサイ2:21-23「“つかむな、味わうな、さわるな”といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです」
1テモテ4:3「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです」
カトリックは結婚をしないで独身を通すことが、祭司になることの条件ですが、少なくとも聖書にその根拠はありません。それは教会に入り込んだギリシャ的な考え方の影響です。昔、日本の仏教にも独身制がありました。ギリシャ的考え方はどの民族にもあります。でも、それは非聖書的な考え方です。聖書は私達の欲望が暴走しないように抑制することを教えていますが、欲望自体を否定せず、むしろ抑制して秩序をもって楽しみ人生を謳歌することを勧めています。
「見よ。私が良いと見た事、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」伝道者の書5:18-19
ところで、2000年前の初代教会は自分を卑しめたり過度の禁欲をしたりを聖書は戒めていましたが、21世紀の現代に生きる私達はどう考えるべきでしょうか?現代は、禁欲を勧める風潮はないし、結婚を禁じることもありません。反対に、食欲、性欲、アルコール依存、ネット依存などの欲望をそそり、暴走させるものがたくさんあります。今は状況が全然違います。だから今はある程度、禁欲が必要な時代ではないかと思います。
でも、昔と変わらないことがあります。“人生は意味がない、虚しい、災いだ”という人生観を持つならば、それは体が魂を閉じ込める牢獄だとするギリシャ的な考え方と同じようなものです。けれども、神は私達にこの体を与えて下さいました。神の前ではこの体は魂とともに尊いものです。抑制を効かせながらも、人生を謳歌することを神は許しています。それは神から与えられた賜物です。
1コリント10:31「こういうわけで、あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」
その賜物を神の栄光を現わすために用いて行きましょう。