マタイ5:1—3

”貧しさを認めることは幸せです“  内田耕治師

 

今日から少しずつ山上の説教と呼ばれるイエス様の長いメッセージを学びます。山上と言うように山の上でイエス様はこの説教をなさいました。なぜ、山なのか?それは旧約時代に起源があります。旧約時代、モーセに導かれてエジプトを出たイスラエル人はシナイ山の麓に集まり、モーセはシナイ山に登り、そこで彼は神から十戒を始めとする律法を与えられました。律法と言えば山で与えられたものでした。そんなイスラエルでイエス様が山でこの説教を語られたことは、旧約の古い律法に対して新しい律法を与えたという意味があるのです。神は古い律法を廃棄したのではないですが、古い律法だけでは足りないところがあるのでイエス様を通して新しい律法を下さいました。それが山上の説教なのです。

一番初めが「心の貧しい者は幸いです。――」です。この逆説は非常にユニークでよく知られています。

けれども、それはイエス様が初めて言い出したことではなく、旧約聖書に預言されて、それがイエス様において成就したものです。イザヤ61:1「神である主の霊がわたしの上にある。“貧しい人に良い知らせを伝える”ため、―――」をご覧ください。

ところで「心の貧しい者は幸いです」の「貧しさ」とはどんなことかと問われると、なかなか上手く答えられないものです。一般的には心が豊かなことが良いことです。心の貧しい人は嫌がられます。けれども、ここで言う「心の貧しさ」はそういうことではありません。このみことばには「貧しさ」とは何かと、「心」とは何かという2つのポイントがあります。

まず「貧しい」とは何か?普通“貧しい”と言っても程度によって全然違います。一般的に貧しさを“食っていけない”と言うことがあります。日本で“食っていけない”とは食べるものがなくて餓死するという意味ではなくて、平均的なレベルの生活ができないという意味です。けれども戦争で物資が欠乏している本当に貧しい国では“食っていけない”は文字通り餓死することです。また貧しい人には裕福な人にはないハングリー精神があり、ハングリー精神で頑張って成功することがあります。けれどもハングリー精神があっても全く通用しなくて、完全にだれかに頼らなくては生きていけないし、将来も開けないという貧しさもあります。そんなとき“どうか哀れんでください”とお願いするほかはありません。この「貧しさ」とは餓死の恐れがあり哀れみを乞う必要がある貧しさです。その「貧しさ」について宗教改革者のルターは死の2日前に“われわれは物乞いに過ぎない。それは本当だ。”という言葉を残しました。物乞いである私達が頼るべき“だれか”とは人や機関や国ではなくて神です。だから「心の貧しさ」が神との関係における貧しさなのです。

「心」と言うと、とかく私達の心つまり私達の内面を考えます。表向きは良い顔をしても内面には思い煩いや、劣等感や優越感、傲慢さや憎しみや恨みがあります。それをまとめて悪い思いと言います。けれども、私達の悪い思いが「心の貧しさ」ではありません。もしそうだとすると“悪い思いがある人は幸いだ”という変なことになるからです。次にこの「心の貧しさ」とは、そのような悪い思いにならないように謙虚につつましやかに歩む謙遜さだということがありますが、これもそうではありません。確かに謙遜さは大切な品性です。けれども、謙遜さには、謙遜で高ぶらず、つつましやかにやっていれば、やがて報われて成功できるという見込みがあります。つまり謙遜な姿勢でやっていく自分を当てにしているのです。“どうにもならない”という所まで行っていません。だからイエス様が言う「心の貧しさ」ではありません。

繰り返し言いますが「心の貧しさ」とは神との関係における貧しさです。「心」は原典のギリシャ語では“プネウマ”つまり“霊”という言葉です。「心の貧しさ」とは“霊において貧しい”つまり“神との関係において貧しい”ということです。“神との関係において貧しい”とは、ようするに神に対して私達はルターが言うように“物乞い”のような存在であり、神に拠り頼まなければ、生きることも救われることも正しい道を歩むことも出来ないということです。ハイデルベルグ信仰問答の第一部は“人間の悲惨さについて”です。人間の悲惨さとは、神の前に救いようがなく、滅びしかないという惨めさです。私達はハングリー精神があっても、謙遜さがあっても神から離れた罪のゆえに自分を救うことは出来ません。初めから罪のゆえに滅びに定められており、どんなに努力しても自分で自分を救うことは出来ません。これがすべての人間の悲惨さです。そして「心の貧しい者が幸い」とは、神の前に救いようがない惨めな私達を、神はイエスキリストを通して救ってくださった、私達に救われるに値するものは何もないのに救ってくださった。だから「幸いだ」ということです。その幸いは、私達が神の前に、罪のゆえに悲惨な状態にあることを知ることから始まります。その悲惨さに気づいてイエスキリストを信じるならば救われます。救われた私達のうちには神の国が存在し、そして世の終わりには天国に入ることが出来ます。

ほとんどの人達は残念ながら自分達が神の前に悲惨な存在であることに気づいていません。人間の力や可能性だけを信じていたり、“死んだら、すべて終わりだ”と虚無的なことを考えていたり、罪や罪のさばきを聞いてもまったく他人事のように思います。けれども、私達はその悲惨さが自分の問題だと知っており、さらにイエスキリストを通してその問題を乗り越えて幸いな状態に置かれています。

ところが、幸いな状態にあるはずの私達自身がその幸いにあまり気づいていないということも起こります。毎日食べていながら“食っていけない”と呟くのと同じように、キリストにある幸いを得ていながら身の回りの小さなことでブツブツ呟いてしまい、完全に忘れたわけではありませんが幸いな者であることが頭にないのです。そんなとき、どうすべきか?もともと罪のゆえに悲惨な者であったのに、イエスキリストを通して救われて幸いな者となったことを思い出し、意識することです。悲惨で絶望的な者だったのに神の恵みのゆえに何もできなくてもイエスキリストを通して救われた。幸いな者とされた。そのことを思い出し、意識することから幸いな信仰生活は始まるのです。